わたしは料理が苦手だが、その理由の一つに「火が怖い」という致命的な事実がある。
もしもコンロの火が、袖に燃え移ったらどうなるか。
コットンや化学繊維でできた衣服ならば、直ちに燃え盛り全身火だるまとなって大やけどを負うだろう。場合によっては命を失うかもしれない。
そんな恐ろしい可能性があるにもかかわらず、なぜ炎の近くへ寄れるのか理解に苦しむ。
そもそも「点火」の瞬間が恐ろしい。鍋やフライパンを触るよりも近い距離で、炎が発生するからだ。
しかも、押しながらツマミを回すタイプのガスコンロだと、こちらは逃げ腰なのに対して、押して回さなければ火がつかない。
そのため、脇が攣りそうになるのをこらえながら、精一杯手を伸ばして押し回すことになる。
ツマミを押すことはできる。だが回せない。逆に、ツマミが回ったときには押す力が弱いため、元に戻ってしまう。その結果、火はつかない――。
火にビビるわたしには、こんなことを何度も繰り返した過去がある。
ある時、ガスコンロとの距離を保ちながら点火しようと、プライヤー(先端が大きめのペンチ)を駆使してツマミを回してみた。
だが、うまいこと押し回すことができずに、ツマミが傷だらけになった。
さらに万が一、ガス漏れで大爆発が起きたりしたら、それこそ自分一人の問題ではなくなるわけで、こんな恐怖と不安を抱えてまで火をつける必要などないだろう。
このように、とにかく火を恐れるわたしは、ガスコンロのツマミを回すことはない。
この話を友人にしたところ、
「いつからそんなに火が怖いの?」
と、素朴で当たり前な質問をされた。
(いつからだろう・・・)
もはや記憶にないほど昔からの話だ。かといって、幼少期に火にまつわる事故や事件があったわけではない。そう、火がトラウマになるような出来事はなにもないのだ。
ということは、わたしのDNAに「火への恐怖」が書き込まれているのではなかろうか。
そういえば、多くの人間がゴキブリを恐れるのはなぜだろう。
これには諸説あるが、中でもイチオシなのは、「人間のDNAにゴキブリの恐ろしさが刷り込まれている」説である。
東洋経済オンラインに掲載されたコラム、「なぜゴキブリだけが、こんなに嫌われるのか」によると、
古生代のペルム紀に生息していたゴキブリは巨大で、われわれの祖先がその攻撃におののいていた、というのである。その恐怖を記憶した祖先のDNAが、今に継承されているというのだ。真偽のほどは分からないが、分子進化の観点からは一理ありそうだ。
という興味深いパラグラフがある。
しかし著者は、「ゴキブリが苦手な親の反射的行動が、子どもに影響を与えているのではなかろうか」と唱えている。
つまりDNAだけでなく、日常生活における親の行動にも原因がある、というわけだ。たしかに、こちらも一理ある気がする。
カブトムシやクワガタは黒光りしており、ゴキブリと大差ない。しかしゴキブリ嫌いの友人いわく、
「カブトムシやクワガタは、なんかカッコいいじゃん」
とのこと。これは「カブトムシやクワガタはカッコいい虫」という概念を植え付けた、情操教育の賜物だろう。
今、冷静に彼らを観察したとして、果たして本当に「カッコイイ」と思うのだろうか。
もしもそう思わなかったとしても、幼い頃の記憶上、「昆虫の王様」「ヒーロー的存在」として刻み込まれたカブトムシやクワガタは、大人になった今でも「カッコイイ」と思わざるをえないのかもしれない。
これに対して、腐ったものや昆虫の死骸までをも食べる「超雑食」のゴキブリは、アニメや漫画でも主人公となることはなく、いつでも嫌われ者の代表格である。
よく考えれば、ゴキブリは直接的な攻撃などしてこないわけで、いったい彼らが我々に何をしたというのか。
ということは、本を正せば「巨大なゴキブリに襲われていた祖先のDNA」と考えるのが妥当といえる。
そして、わたしが火を恐れる感覚というのも、これと似たようなものではなかろうか。
つまり、わたしの前世は「虫」だったのでは――。
『飛んで火にいる夏の虫』の例えのように、バカなわたしは火に飛び込んで焼け死んだのだ。
その一瞬の恐怖と後悔とがDNAに刻まれて、現世のわたしに受け継がれたのだ。
――そう考えると、得心が行く。
火の用心 点火一発 阿鼻叫喚
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