蜘蛛の意図

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この世の生き物で、蜘蛛が最も苦手だ。

わたしの前世がハエや蚊といった、飛翔する小昆虫だったことに由来するのかもしれないが、大きさの大小問わず蜘蛛が現れるとフリーズしてしまう。

 

思い出すだけでも鳥肌が立つのは、栃木県・那須での出来事。

自然豊かな田舎道を気分良く歩いていたところ、よそ見をした隙に木の枝か何かに接触した。

ハッと前を向いた瞬間、頭のあたりからバリバリッと網を破るかのような音が。慌てて頭上へ視線を向けると、なんとそこには巨大な蜘蛛の巣が張り巡らされていたのだ。

 

(いま、バリバリっていったよな・・・)

 

蜘蛛の巣に触れた髪の毛が蜘蛛の巣から離れる際にバリバリ音を立てる、というリアルを受け入れることができない。

なぜ髪の毛よりも細い糸でできた蜘蛛の巣が、バリバリなどという仰々しい音を立てるのか。

まるでミカンの入ったネットを両手で引きちぎるかのような、見た目以上にジョウブな糸であることが音から伝わってくる。

 

現実を受け止める間もなく、全身に緊張が走り鳥肌が立った。

 

わたしの大嫌いな蜘蛛が生み出すタンパク質の糸。それが野生化したためか、都会ではお目にかかれないほどの太さで、立派な大円形の網を張っていた。

そこへよそ見をしていたわたしが突っ込んだのだ。

 

野生の蜘蛛の巣は糸が太くて丈夫なだけでなく、粘着性が非常に高い。そのため、髪の毛から取る際に「バリバリッ」と、まるで粘着テープをはがすかのような音がするのだ。

 

もちろん、蜘蛛の巣がきれいに取れるわけではない。ところどころ髪の毛にこびりついていたり、蜘蛛の巣が壊れてわたしの顔に垂れ下がってきたり、もはや阿鼻叫喚の地獄絵図。

 

心底驚くと声が出ない、とは本当だった。

声にならない叫び声を上げながら、わたしは近くの木の幹に頭をガシガシこすりつけた。なぜなら素手で蜘蛛の巣を払う勇気がなかったからだ。

 

飛び出しそうなほど目をひん剥き、鼻の奥からは涙と鼻水があふれ出て、肩を大きく上下させながら肺呼吸をくり返す。

 

そのうち幹に頭をこすりつけながら、木の周りをぐるぐる回り始めた。

もしこの蜘蛛の巣の破片に、主である蜘蛛がくっ付いていたりすると、わたし自身に乗り移る可能性がある。それを阻止するためにも木の幹に蜘蛛ごとこすりつけて、少しでも遠ざけようという作戦だ。

 

かれこれ5分は経っただろう。髪の毛が抜け、耳や額、首筋から血がにじんでいる。わたしは恐る恐る両手で頭を触った。

すると側頭部に一瞬、べたつく感触を覚える。

 

ギャーーーーーー!!!!!

 

今度は大きな声が出た。ある程度落ち着いて思考が巡るようになると、人は叫ぶことができるのだ。

赤ちゃんが不意に頭をぶつけた時、一瞬キョトンとしたあと「うわぁぁん!」と泣き始める、アレに似ている。

 

わたしの叫び声を聞いた友人らが駆け付け、ギョッとしながらも髪の毛にこびりついた蜘蛛の巣を除去してくれた。

 

 

そんな天敵である蜘蛛が、いま目の前にいる。

ここは都内にある自宅のデスク。パソコンの先、およそ30センチにあるブラインドに、一匹の小さな蜘蛛がちょこんと留まっている。

 

そういえば一週間前、視界の左側を黒っぽい物体が横切ったことを思い出す。だがあえてそれを見ないようにした。もしそれが蜘蛛ならば困るからだ。

 

数日後、今度はテーブルの上を小さな黒っぽい蜘蛛がツタツタと移動していた。

心拍数が急上昇したが、冷静さを失わないよう気持ちをコントロールしながら、わたしはガムテープを手に取る。

 

さすがに罪もない昆虫を殺すのは気持ちのいいものではない。こちらが一方的に嫌いなだけで、あちらには何の感情も憎悪もないはずだから。

だがこのまま生かしておけば、寝ている間に鼻の穴から体内に侵入し、肺に蜘蛛の巣を張られる恐れがある。そうなれば命が危ない。

 

そこで蜘蛛をガムテープに貼りつけ、マクドナルドのアップルパイのように蜘蛛を包み込み、明日の朝一でコンビニのゴミ箱へ捨てにいくことにした。

 

ここでわたしの優しさが現れる。

蜘蛛を圧死させることは簡単。だが殺す必要のない無実の生き物であることを尊重し、パイの中身としてそっと包み込んで捨てる、という考えに至ったのだ。

 

素早い動きを見せない小蜘蛛に狙いを定め、真上からペタっと貼り付けた。

 

ーーガムテープの中央がわずかに膨らんでいる。ここにアイツがいる。

 

しばらく様子をうかがった上で、わたしはガムテープをテーブルからそっと剥がした。そこには確かに、蜘蛛がいた。

急いで包み込もうとしたところ、このガムテープはいわゆる「クラフトテープ」と呼ばれる紙でできた製品のため、変なところで折れ曲がってしまい、蜘蛛がテープからはがれ落ちてしまった。

 

思わずその場からのけぞったわたしは、不運にも蜘蛛を見失った。

 

(消えたんだ。あの蜘蛛はきっと、蒸発したに違いない)

 

そう何度もつぶやくと、確かに蜘蛛は蒸発していた。助かった。

 

あれから数日、蜘蛛のことなどすっかり忘れていた矢先に、再びあの蜘蛛が現れたのだ。

いや、もしかするとこれは蜘蛛の亡霊なのかもしれない。自分を殺そうとしたわたしへの仕返しのために、あの世から返り咲いたのかもしれないーー。

 

こうなったらわたしも覚悟を決めるしかない。今度は布テープを持ち出し、どの角度へ折りたたんでも蜘蛛がこぼれ落ちないよう、何度も予行練習をした。

(今度こそ失敗するまい)

ブラインドにくっ付いたまま、微動だにしない小蜘蛛めがけて布テープを押し当てた。

 

ーーよし、蜘蛛はここにいる!

 

用心深く布テープをはがす。そしてなるべく迅速にテープで包み込んだ。

蜘蛛がいるであろう場所にゆとりをもたせて包んだので、念のため蜘蛛の様子を確認しようと端っこをめくってみた。

 

(・・・い、いない。いないどころか、足が3本くっ付いている)

 

なんと蜘蛛の本体が消えていた。その代わり、足が3本残されていた。

 

蜘蛛の足は8本。仮にすべて生えていたとして、ここに3本くっ付いているということは、ヤツは現在5本の足で逃走している。

 

絶対に探したくない。どうせまた蒸発するんだから、なにも血眼になって探す必要はない。しかも手負いの状態で長生きなどできまいーー。

 

こうして、天敵である蜘蛛とわたしの戦いは続くのだった。

 

 

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