気が早い・・いや、用意周到なわたしは、来年のピアノ発表会で弾く曲をYouTubeで聴きながら、移動時間の暇つぶしをするのがここ最近のルーティンとなっている。それにしても、同じ曲を弾いてもピアニストによってまるで違う演奏になるのだから、芸術というのはなんとも奥が深いものである。
ちなみに、命よりも目が大切なわたしだが、それと同じくらい耳も労わっているため、音楽や動画をデカい音で視聴することはない。その代わりといってはなんだが、偽AirPodsを耳の穴に突っ込んでいるので、周囲の雑音がそこそこ遮断されることから、ボリュームを上げなくても音源に耳を傾けられるのだ。
そんなわたしは、中目黒へ移動するべくタクシーに乗り込んだ。
我がアジトの拠点たる白金から、感度の高いオシャレ人が集う街・中目黒までは、実際の距離以上に交通の便が悪い。なんせ、地図で見るとほぼ一直線でたどり着きそうなところを、電車やバスを乗り継がなければ到達できないため、移動時間や乗り換えの労力を考えると、残念ながら”タクシー一択”となるのだ。
「恵比寿を超えて、代官山交番を左折して中目黒へ向かってください」
お決まりの文句を運転手へ伝えると、背負ったリュックを下ろすことなく、一ノ瀬海(アニメ「ピアノの森」の主人公)が奏でるショパンに身も心も委ねた。
——あぁ、ここまで完璧な演奏じゃなくていいから、この足元くらいは弾けたらなぁ。
上手い人の演奏は参考になる部分が多い反面、自分の稚拙さや現実との乖離を叩きつけられるため、胸のモヤモヤが消えないときがある。相手は超一流のプロなんだから・・と頭では分かっていても、まるで世界が違うことに恐怖というか現実逃避というか、どうしても認めたくない「何か」があるのだ。
それでも、少しでも追いつけるように・・なんて言ったらおこがましいが、せめて今よりもマシな演奏になるように、すがる思いでピアニストの演奏に全神経を集中させるのであった。
そうこうするうちに、タクシーは恵比寿を走り抜け代官山交番の手前まで進んでいた。いつもならば多くの車で混雑するエリアなので、ここまで来るのにもっと時間がかかるはず。だが、今日は思いのほか空いていた模様。
そして、いよいよ目的地に向かって目切坂を下り始めた頃、わたしは偽AirPodsを耳から外すと、夢の世界から現実へと引き戻され——ん?なんだこの耳障りな警報音は。
どこからともなく、何らかの異常を示す警報音が聞こえてくる。とはいえ、発信源は車内ではないだろうから、その辺にある誰かのお宅のセコムが警告しているのか、あるいは自動車の盗難防止アラームが鳴り響いているのか、いずれにせよ穏やかではない。
ところが、いつまで経ってもその警報音は鳴り止まない。それどころか、音が離れていくわけでもなければ消える様子もない——なんなんだ?この音は。
真相が気になるわたしは、目切坂の先にある信号で降りる旨を伝えたついでに、運転手にこの警報音について尋ねてみた。すると、およそ60代と思しき老紳士は、ちょっと気まずそうにこう教えてくれた。
「お客さんがシートベルト、してないからですよ・・」
なんと、後部座席のわたしがシートベルト未着用だったため、この警報音が鳴っているのだそう——え?・・ってことは、もしかしてずっと鳴ってたのか?!
「えぇ、お客さんが乗られた直後からずっと、鳴ってますよ」
(・・・・・)
わたしがショパンとラフマニノフに聞き惚れていた頃、その裏ではシートベルト未装着を知らせるアラームが鳴り響いていた。しかし、そこまで喧(やかま)しい音量・音色ではないため、周囲の雑音が聞こえていないわたしの鼓膜には届かなかったのだ。
(運転中の老紳士は、この状況をどう感じていたのだろう。コイツ=わたしは、どんだけ図太いメンタルしてんだよ・・とか、思っていたんだろうな)
聞くところによると、この警報音は今年の4月から導入が始まったが、タクシー会社や車によっては未だに設置されていない場合もあるとのこと。さらに老紳士は、「ゴールデンウイーク明けに会社へ行ったら、勝手に取り付けられていましたよ」と、苦笑いで話してくれた。
——それにしても、シートベルトを着用することが嫌なわけではないが、まさかの警報音を無視したまま目的地まで運ばれてしまったわたしは、運転手に対して「どうにかして、まともな人間である印象を植え付けたい」という一心で、下車までの僅かな時間、警報音をBGMに政治や年金の話を無理やり喋りまくった。
(あぁ、なぜそんなバカを見るような蔑んだ目をするんだ・・)
今後は、タクシーに乗ったらとりあえずイヤフォンを外して、シートベルトの警報音に耳を澄まそう・・と、密かに誓うのであった。
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