しゃっくりが止まらない。いや、問題は止まらないことではない。急にしゃっくりが出始めたことだ。
私は、帰宅途中に立ち寄ったコンビニで、真空パックの燻製たまごを買った。べつに食べたかったわけではないが、手を汚さずに健康的に何かを食べるには、殻が取り除かれたゆでたまごや燻製たまごがうってつけ。
たまごをツルンと押し出して、口の中へ放り込んだらハイ、終了。あとはモグモグ咀嚼して、喉に詰まらせないように慎重に飲み込めばいい。
このように手軽に腹を満たせる燻製たまごは、夜中に食べても罪悪感の少ない優良食品といえる。だがそんな優良食品を口にすると、かなりの確率で起こる現象がある。
それが、しゃっくりだ。
しゃっくりは、医学用語で「吃逆(きつぎゃく)」という。その発生メカニズムはこうだ。
求心性もしくは遠心性の横隔神経の刺激、または呼吸筋、特に横隔膜を支配する延髄呼吸中枢の刺激に、横隔膜の不随意な痙攣の後に声門が突然閉塞し、それにより空気の流入が阻止されて特徴的な音が発生する現象が、しゃっくりである。
小難しい話はさておき、今のご時世においてもなお、原因不明の消化管疾患の症状という位置づけにあるしゃっくり。
そしてなぜか燻製たまごやゆでたまご、さらには焼き芋などのパサついた食べ物を食べると、しゃっくりが突如発生する。
急いで飲み込もうとしたり、大口を開けて詰め込んだり、そういった行為が空気を一気に送り込むことで、しゃっくりを誘発するという説がある。
または、嚥下に気を取られているうちに呼吸の速さや深さが不規則となり、そのため二酸化炭素濃度が低下することが原因とも考えられている。
いずれにせよ、直接的な原因は不明。だがとにかく、硬く茹でられたり燻されたりしたたまごを美味しく頬張ろうとすると、高確率でしゃっくりが発生するのだ。
そして毎回、思うことがある。もしも今が緊張を伴う重要な場面だったりしたら、このしゃっくりのせいでかなりのリスクを背負う羽目になると。
似たような不随意運動で「くしゃみ」があるが、くしゃみは止めることができる。くしゃみが出そうになったら、上唇に指を押し付けながら鼻の穴を塞ぐと、不思議と食い止めることができるのだ。
ところがしゃっくりに関しては、なにをどうしても止めることができない。仮に、生死を分けるような重大かつ緊迫する局面だったら、どうすればいいのだ。
凶悪殺人犯が私を狙っているようなときに、もしもしゃっくりが出始めたらどうするのか。どれほど固く口を抑えようが、どれほどきつく息を止めようが、しゃっくりは止まらない。
そうなれば私は、殺人犯に見つかり殺される運命となる。
息をひそめなければならない状況で、不随意運動であるしゃっくりが発生した場合、それはイコール死を意味する。
そんな危険なことは命を賭けてでも避けるべきだが、己の意思とは無関係に起こるしゃっくりは、あたかも敵が仕組んだ罠のように、完璧なまでのタイミングで誘発される。
そして今、静寂が保てなければ命が奪われるとすれば、私は確実に殺される。どれほど真剣に、全身全霊でしゃっくりを止めようと尽力したところで、不随意運動であるしゃっくりを黙らせることはできないからだ。
これほどまでに恐ろしい地雷を抱えながら、横隔膜を待つ我々哺乳類は生きているのである。
はちきれんばかりに強く息を止めようが、鼓膜に届くほど耳の穴に指を突っ込もうが、内臓を突き破る勢いで肋骨の間から横隔膜に圧力をかけようが、ある程度の時間が経過しなければ、静まることを知らない暴君・しゃっくり。
どれほどの哺乳類や単孔類たちが、このしゃっくりのせいで命を奪われてきたことか。
長い歴史を振り返れば、必ずや、しゃっくりが原因で居場所を特定され、命を奪われた者がいるはず。
そんな無念の死を遂げた英霊たちに想いを馳せながら、ちっぽけな己の生きざまを振り返るうちに、気がつくとしゃっくりは止まっていた。
つまりこのくらい深く考え、心を痛め、命の尊さについて考えることができれば、しゃっくりは止まるのだ。
いずれにせよ、厄介な暴君である。
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