ちょっと変わった趣味として、「深夜の飲食店にて客を観察しながら、勝手にその者の人生を設定する」という妄想癖が、わたしにはある。
わざわざそのためだけに飲食店へ出向くことはないが、深夜に小腹を満たすべく店を訪れた際には、必ず、店内にいる客の様子を観察しつつ職業を推測し、勝手にその者の人生を決めつけては憐れむのである。
ポイントは「最終的に憐れむ」というところにあり、どれほどリッチで充実した人生を送っていようが、わたしの中では勝手に"可哀そうなヒト認定"されるわけで、当人にとっては全くもっていい迷惑だろう。
だが、深夜に一人寂しく牛丼を掻っ込むオトコどもを見ていると、悲壮感というか哀愁が漂っているわけで、とてもじゃないが羨ましいとは思えない。ついつい心の中で「明日も頑張って生きような・・」と、エールを送ってしまうのだ。
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深夜一時半、港区芝浦にある牛丼大手チェーン・吉野家を訪れたわたし。じつはここ最近、"吉野家で飯を食べる"という儀式を覚えたことで、これまでは誰に誘われても断固拒否していた吉野家に、まさかのわたしが鎮座するという現象が勃発しているのだ。
そして、普通ならば自宅で寝ているであろう時間帯に、コソコソと牛丼を食べる哀れな独身サラリーマンたち(わたし設定)を観察しながら、大盛りのTKG(卵かけごはん)とうな重を頬張るのが密かな楽しみとなっていた。
ちなみにわたしは、吉野家において「牛丼」を食べることはない。どうしてもあの「肉」が美味いとは思えず、残念ながら「肉抜き」の牛丼を頼むこととなるため、ならば最初から肉の載っていないメニューを選ぼう・・と考えた結果、大盛りご飯にねぎ卵でTKGを作り、さらに大盛りのうな重と味噌汁、さらにオム玉子をおかずにした"オリジナル夜食"が完成することとなったのだ。
ちなみに、男友達と二人で入店した際に、注文の品を運んできた店員が「組み合わせが分からないので、とりあえずこんな感じでよろしいでしょうか・・」と、困惑した表情を浮かべながらも、ほとんどの皿をわたしの前に並べたのは面白かった。その瞬間、わたしは「店員の期待を裏切らない注文をしたのだ!」と、どこか誇らしい気分になったわけで——。
そんなこんなでTKGを頬張りながら店内を見渡すと、深夜にもかかわらず5人のくたびれたサラリーマンが点在していた。当然、互いを知らぬもの同士なので、カウンター席で一つ飛ばしに座りつつ牛丼をつついていた。
それにしても、牛丼という食べ物自体がそもそも高級料理ではないにせよ、しがないサラリーマンが背中を丸めて牛丼を食べる姿は、なんとも哀愁が漂っていて見ごたえがある。なぜなら、その裏にはこんなストーリーが存在するからだ。
——あのオトコ、今日も会社でキモデブの上司に罵られ、理不尽な責任転嫁により残務処理を押し付けられたのか。おまけに、チャラい後輩からは「アナログ人間」と見下され、なんだかんだで終電ギリギリまで残業したあげく、ようやく自宅へ着いた頃には家族はすでに就寝。もちろん、自分の分の夕飯など用意されているはずもなく、やむをえず吉野家へやって来た・・という、残念なオチを物語るに相応しい後頭部をしている。
そして、そんな哀れなオッサンの隣りに座るあの若者、彼は"彼女いない歴27年の魔法使い見習い"である。家賃6万円の底冷えするワンルームへ戻る前に、せめてものご馳走を・・ということで、吉野家の牛丼で腹ごしらえをしているのだ。右手に箸、左手にスマホという臨戦態勢で、牛丼を味わうわけでもなくただ単に米と肉を噛みしめては飲み込んでいる。あぁ・・これを食べ終えたら、真っ暗な部屋へ帰らなければならないのか——彼の"心の声"が漏れ伝わってくるようだ。
・・こんな感じで、その他のサラリーマンたちも皆、それぞれの悲劇的かつ屈辱的なストーリーを勝手に設定された上で、浮かない顔で黙々と牛丼を貪る姿を観察されているわけだ。
そう考えると、ネットフリックスよりも奇妙でリアルなヒューマンドラマを、無料で視聴できるメリットが深夜の吉野家にはある。そしてこれは、高級料理店では決して得ることのできないシチュエーションなのだ。
(さて、他人の不幸も満喫したし、そろそろ帰るとするか——)
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