ショート・ショート

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「荒本の家はどこにあるの?」

 

たまたま近くに立っていた、同僚の荒本に声をかける。荒本がどこに住んでいようがどうでもいいことだが、我々二人はミーティングに遅刻したため、参加のタイミングを見計らってラウンジでウロウロする、ある意味「仲間」だったのだ。

とにかく真面目で滅多に笑わない荒本は、いい奴だが絡みにくい。おまけに帰国子女だからか、日本人ばなれした間隔や雰囲気をまとっている。だが今は我々二人は同志であり、遅刻厳禁のミーティングに途中参加するという、なかなか度胸のいる挑戦を試みなければならない。少しでも打ち解けておく必要がある。

 

荒本は普段から無表情で、骨張った青白い顔をしている。決して健康的には見えないが定期的にスポーツをしているらしい。「趣味は映画鑑賞です」と言うに決まっている見た目だが、そうじゃないあたりが人間の深いところ。

私とは正反対のタイプの荒本と、アイスブレイクの意味で会話をするとなれば、現実的でどうでもいい話をするしかない。天気の話とか、話題のニュースとか、新入社員についてとか。とはいえ遅刻をした我々がどうでもいい話に花を咲かせられるほど、強いメンタルは持ち合わせていない。遅刻=ここまでどのくらいかかるのか、このくらいが無難なレベルだろう。

 

というわけで、とりあえず荒本の住まいを尋ねたわけだ。

 

そろそろミーティングに参加できそうな雰囲気を感じるので、急いで身支度を整える。ズボンのボタンを外すと、しわくちゃになっているシャツをキレイに押し込んだ。相変わらずズボンはパツパツのため、再びボタンを留めるのに思いっきり腹を凹まさなければならない。私はフーっと息を吐きながら、慎重にボタンホールへボタンを通そうとした瞬間、

「せ、世界中にあるよ」

捨て台詞のように、だがどこか恥ずかしさを含んだ調子で、しかも微妙な間をあけて荒本が言葉を発した。――あぁ、どこに家があるの?の返事か。

 

とにかく真面目でジョークなど無縁な男だと思っていた荒本が、我々二人だけが遅刻をするという最悪の状況を和ませるために、懇親のジョークをかましたのだ。あるいは事実なのかもしれない。海外生活が長い彼ならばあり得るわけで。

そしてその発言を聞いた私は、凹ましていた腹をポーンと突き出して大笑いした。ついでに、留めかけていたズボンのボタンが弾け飛んでしまった。

「腹へこませてるときに笑わせんなよ!」

一瞬にして、アイスブレイクが成功したというわけだ。タイミングといい、表情といい、シチュエーションといい、すべてが完璧に揃った瞬間だった。

 

荒本、あっぱれ。

 

 

女性はニオイに敏感な生き物。ましてや他人と密着する競技をしていれば、他人のニオイも含めて自分のニオイを気にせざるをえない。

 

ブラジリアン柔術のジムに通う私は、どんなに遅刻をしようが貫いていることがある。それは、練習前に歯を磨くことと、足の裏を隅々までゴシゴシ洗うことだ。もし一瞬でも私の口や足が臭かったら、良からぬ噂がたつに決まっている。ただでさえ、野生的で臭そうな風貌をしているのに、これが少しでも臭かったら終わりだ。

「アイツは臭い!見るからに臭そうだが、やっぱり臭かった!」

こんな噂が広まった日には、ジムを退会して田舎に引っ込むことになる。さらには婚期がますます遅れてしまうわけで、断じて避けなければならない。よって、露出している臭い可能性のある場所は、すべて潰しておかなければならないのだ。

 

ニンニクやネギの入った料理を食べた後は、マスクをして練習に参加する。苦しくて外すときは、

「ニンニク臭くてごめんね」

と、必ずエクスキューズを挟んだうえで、顔が近づいたら息を止めるようにしている。そのくらい、ニオイには必要以上に敏感な私なのだ。

 

そして今日、練習前に歯を磨き足を洗ったあと、ドラッグストアで購入した「ビオレさらさらパウダーシート」を取り出すと、首や脇、肘、胸、腹などをゴシゴシと拭いた。この商品の謳い文句は、

「香りマジック!変化する香りで、ふくたび楽しい♪」

というもので、拭いている時はミントの香りが漂い、その後は完熟ベリーの香りがするのだそう。そんなオシャレなニオイならば大歓迎だ。拭くたびに感じるひんやり冷たいメントールの刺激と、鼻の奥へと広がる芳醇で甘酸っぱいベリーの香りが、私をいい女へと格上げしてくれる感じがする――。

 

身支度が整ったところで颯爽と練習に参加した。しかししばらくすると体に異変が現れはじめた。熱がある?いや、ちょっと違う。しかし高熱が出るときの関節痛に似た違和感がある。皮膚が敏感になっているような、触れると痛いようなあの感覚だ。

ワクチンを打ったわけでもないのに、さっきまで普通に元気だったはずなのに、なぜ急に体がヒリヒリするような変化が起こるのだ――。

気分は落ち込み、心拍数は上がり、皮膚はますます刺激を感じる。やばい、体調が悪くなっていく。

 

とその時、一つの可能性に気がついた。さっき使った、さらさらパウダーシートのせいではないかと。メントール配合のシートでゴシゴシ拭きまくったわけで、肌表面の冷感センサーが反応し、ひんやりとした冷たさを感じた。

だが物忘れの激しい私はひんやりすら忘れてしまい、改めてそれに気がついた時には「刺激」「違和感」という、ネガティブな感覚でとらえてしまったのだろう。そのため、

「皮膚がヒリヒリする。そうか、体調不良だ!」

となったのだろう。そう考えると得心が行く。

 

納得できれば怖い物はない。スースーする皮膚のことなどすぐに忘れて、再び練習を再開したのであった。

 

サムネイル by 希鳳

 

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