「いつも優しくしてくれてありがとう」
深夜、友人から突然の告白を受けた。
私は優しくした覚えなどない。
さては酔っぱらっているのか。
だがこの一言が発端となり、私はあれこれ思いを巡らせることとなった。
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最愛の人を失い絶望の淵に立つとき、他愛もない親切にすら感動してしまう心境は想像に容易い。
たとえば電車で席を譲ってもらっただけで、「なんて優しい人だろう」と涙を浮かべ感謝するだろう。
席をゆずった人は「次の駅でおりるから」という単純な理由だったとしても。
これに対して、ジャンクフードで満腹になったところへ最高級の肉やデザートを出されたとしたら、その人に対して「わざとやったな、嫌がらせだ」と思うだろう。
恩を売るため、感謝されるための行為ではないにせよ、「ありがとう」と言われることで嫌な気分にはならない。
その逆も然りで、相手が望まない行為は感謝されるどころか、意図せずとも不快な思いを与えることとなる。
ただそれは、あくまで相手のさじ加減で決まることを忘れてはならない。
自分にとっての「いいこと」が相手にとっての「いいこと」とは限らないし、それが裏目にでて「悪いこと」になってしまう場合すらある。
ときに「いいこと」は諸刃の剣となる。
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では、いかにして正しい方向性で正しい熱量を伝えるのか。
やはり「ターゲット」を正しく選定することだろう。
弁護士の友人は言う。
「客観的に『いいもの』って多分、存在しない。
それを『いい』と判断するのが誰なのか、ターゲットの問題に行き着く気がする」
彼の書面は背筋が凍る。
これまでいくつもの訴状、答弁書や準備書面を見てきたが、友人のそれはまさに神経を逆なでする。
それだけ事の本質に触れているのだ。
「俺のターゲットはもちろん裁判官だけどね」
裁判官に分かりやすく伝えることなど当たり前で、その上で裁判官という人間に刺さる書面に仕上げる。
担当裁判官のキャリア変遷や判断傾向を多少なりとも知っておくと、より効果的。
そんな友人が作り上げる恐怖の書面、裁判の相手方からすれば読んでいる途中で具合が悪くなり嘔吐するであろう臨場感。
文字にここまでの威力があるとは、法律論以前のはなしだ。
だがこれは友人のセンスであり才能のため、けっして真似できるものではない。
さらにターゲットがハッキリしていれば対策も練れる。
これについては格闘技も同じだ。
相手を知り尽くせば恐怖心が消え、動作分析から弱点を見つけることができる。
どんなことでもターゲットを見誤らなければ、たいていのことは上手くいくだろう。
*
優しくしたおぼえのない友人からの感謝。
弁護士の友人が言う「客観的にいいものは存在しない」という意味。
前者は無意識にフィットする可能性がある。
相手は友人なわけで、彼女を思って行動や言動を重ねているはずだから。
しかし後者はむずかしい。
私の思う「主観的にいいもの」と、他人が思う「他人の主観的にいいもの」が一致するかどうか。
または「他人の主観的にいいもの」にアジャストできるかどうか。
そしてそれらが噛み合わない場合や掴みきれない場合、自分の主観と他人の主観とどちらを選ぶかの壁にぶち当たる。
目的はなんだ?
ターゲットが自分ならば、自分の思うままに進めばいい。
ターゲットが他人ならば、他人が共感しなければ意味がない。
その線引きができなければ「いいもの」は生み出せない、いや、生み出してもその価値は皆無となる。
いいものは、いいと思う人にだけ「いい」のだから。
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努力はむくわれるーー
私が最も忌み嫌う言葉。
努力がむくわれることはない、愚か者の戯言だ。
すべては必然に、己の身の丈にあった範囲でしか起きないし起こらない。
ターゲットを見誤るな、そして最適な手段で伝達しろ。
Illustrated by 希鳳
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