命懸けの帰宅

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(傘がぶっ壊れるほど、強烈な雷雨だったのか・・)

自宅マンション前に、緑色の折りたたみ傘が見るも無惨な状態で捨てられていた。まったく、傘の骨が折れた姿というのは哀れで見ていられない。おまけに、折れたが最後。ゴミ捨て場以外に進路はないわけで、本当にいたたまれないのである。

・・などと呟きながら、傘の残骸を道の端っこへ寄せようとしたところ、——それは大きな葉っぱだった。漫画の世界でカッパがさしている傘・・といえば伝わるだろうか。とにかく、なぜこんなところにこのようなバカデカい葉っぱ——しかも茎付きで、まるで傘のような形で落ちているのか、まったくの謎である。

(いや・・ほんとうにこれを「傘」として使った、ツワモノがいたのかもしれないな)

緑豊かな田舎ならまだしも、人工的に緑を植えている都心において、葉っぱの傘を頭に載せて家路を急ぐ人間がいたら、それこそギャグである。だが、このタイミングでこのサイズの葉っぱ(いや、傘だろう)が捨てられているとなれば、それはかなりの高確率で"傘"として利用した・・と睨んで間違いはない。

おまけに、葉っぱならば道端に捨てても怒られないし、ポイ捨てをしたかのような罪悪感に苛まれることもない。その上、樹木から葉っぱをもぎ取る際の度胸は、他人の傘を盗むよりも軽微なわけで、樹木には申し訳ないがずぶ濡れを回避するためにも、どうか目をつむってもらいたいのである。

 

・・などと呑気に考えているのには理由がある。それは、わたしが今この世を生きているからだ。ややもするとわたしは、一時間前に死んでいたかもしれない。それでもこうして無事に生きているからこそ、「大きな葉っぱを傘として使った誰か」のことを考える余裕があるのだ。

それでは、いったいどんな理由で"死"を覚悟したのかというと・・そう、落雷だ。ここ最近、夕方から夜にかけて突然の雷雨に見舞われる確率が上がった。そしてわたしは、雷が怖い。といっても、雷の光や音が怖いのではない。雷に打たれて死ぬのが怖いのだ。・・いや、怖いというよりも「落雷で死ぬのは後悔しかないから、絶対に避けたい」という、選択ミスの怖さである。

 

巷では「落雷で死ぬ確率と、搭乗した飛行機が墜落する確率では、落雷で死ぬ確率のほうが高い」と言われている。どうやら、落雷で死ぬ確率が0.0012%に対して、墜落で死ぬ確率は0.0009%なのだそう。

なお、日本における雷による死者数は年間10人程度、対する米国は50人程度とのこと。米国での死者数が多い原因として、落雷数の多い地域が多いことや広大な農地が挙げられる。

そもそも落雷による死亡事故は、広く開けた場所で起こりやすい。今年4月に宮崎市内のサッカーグラウンドで、高校生18人が雷に打たれて救急搬送される事故が起きた。この事実が示すように、グラウンドなど高い建物がない場所では、雷はヒトに落ちるのだ。

 

おまけに、雷雲から10キロ離れた地点まで放電が伸びて落ちることもあるらしく、頭上で稲光や雷音がしなくても危険な状態であることに変わりはない。だからこそ、雷注意報が発表された際は外出を控えて、屋内でじっとしているのが「後悔しない生き方」なのである。

それなのに今日、ピカピカと異様な光を放つ空の下、わたしはダッシュしなければならない状況にあった。どしゃ降りの雨に打たれても問題はない。だが、雷に打たれて死ぬのだけは勘弁だ——。

 

いくら「ホームランボールをつかむ確率」や「東大に合格する確率」、「パチンコで大当たりする確率」、「裁判員裁判制度に選ばれる確率」よりも低いとはいえ、飛行機事故や隕石に当たって死ぬ確率よりは高いのだから、"落雷で死ぬなんてありえない!"などとデカい口は叩けない。

そうやって調子に乗っているヤツに限って、うっかり雷に狙われるものなのだ。だからこそわたしは、一ミリも油断することなく雷を恐れているのである。

 

「もしもわたしが落雷で死んだら、絶対に"いい人だった"とコメントしてよ」

何人もの友人・知人に"もしもの時の遺言"を残すと、稲光で奇妙な明るさの夜道を全力でダッシュした。——これで死んだら、マジで後悔するぞ。

 

 

そしてわたしは、何事もなかったかのように帰宅したのである。その結果、サバイブできたことへの安堵と落雷に勝利したことへの興奮から、デカい葉っぱを"壊れた折りたたみ傘"と見間違えたのである。

いやぁ、無事に帰宅できてよかったよかった・・・。

 

Illustrated by 希鳳

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