古代の日本において人々は、誰かの所有物で欲しいものがあれば、自分の所有物のどれかと引き換えに手に入れる、「物々交換」という手法を用いて生活していた。
その後、貨幣の走りとして布や塩、そして米が台頭した結果、物々交換ではなく、欲しい物を米などと引き換えに手に入れる、「物品交換」に変わっていった。
さらに飛鳥時代に入ると、「米を税として徴収する制度」ができた。中学校くらいの授業で習ったであろう、班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)がそれにあたる。
米は美味いだけでなく、栄養価が高く生産性にすぐれている。さらに長期保存も可能な食糧ゆえに、米を基本通貨として「税」という形で納める方法を編み出したのである。
――さすが、中大兄皇子。
そして今、わたしは大量のおむすびと共に、駅のホームで立ち尽くしている。
少し前に、友人の労働相談に助言を送ったところ、「そのお礼に」ということでリクエストを求められたのだ。当時の気分はパンケーキだったので、
「パンケーキとコーヒーをごちそうしてくれればいいよ」
ということで手を打ったわけだが、時が過ぎ気分も変わったいま、わたしはパンケーキではなく「おむすび」にベクトルが向いていた。
「どんなおむすびがいいの?中身は?海苔は?」
矢継ぎ早に大層な質問をする友人。・・チッチッチッ。単なる塩むすびでいいのだよ。
しかし本来、報酬を支払うべきところを米で納めるわけで、そこはさすがに塩のみではまずいだろう、という気持ちが働いたのかもしれない。
彼女なりに中身を考えたり、海苔を準備したりすると言っていた。
(ほんとうに、白米だけでいいんだけどなぁ)
わたしは不思議に思った。
たとえば焼肉を食べに行くと、肉とは別にライスを頼む人が多いだろう。そして、焼きたての肉を白米の上に載せると、米と一緒に口の中へ掻っ込むわけだ。
・・それは極めて「邪道」である。
わたしはいかなる時でも、白米は白米として単独で口へと運ぶ。
肉は肉、米は米。それぞれの素材の味を楽しみながら胃袋へと送り込むからこそ、肉や米それぞれの旨味や特性を感じることができるのだ。
目の前で焼肉を食べる友人が、不思議そうな顔で尋ねる。
「ご飯だけで食べて、美味しいの?」
寝言は寝て言え!!むしろ、白米を白米だけで食べるからこそ美味いんじゃないか。なぜ、肉汁やタレで白米を汚す必要があるのだ?白米に謝れ!
内心カッカとなりながらも、白米の美味さを知らない凡人を嘲笑いつつ、無言で「わたし流」を貫くのであった。
そんな「白米絶対主義者」わたしの元へ、大量のおむすびが届いたのである。
しかも、おむすび専門店で購入したばかりのホヤホヤを、電車を乗り継ぎわざわざ届けてくれたのだ。
遠くからはるばる運んでくれた彼女に気を使い、
「ちょっとコーヒーでも飲む?」
と言って近くのカフェを検索すると、それを遮るかのように、
「でもまだ温かいから、すぐに食べたほうがいいんじゃないかな・・」
と遠慮する友人。
労をねぎらう意味でも、長い道中の疲れを癒すためにも、ここは彼女の気遣いを押し切ってでもカフェに入り、飲み物をご馳走するべきだろう。
だが、両手に大きなビニール袋を提げて立つ彼女を見た瞬間、「これはいち早く、おむすびを食べなければならない!」という、使命感にも似た熱い気持ちに襲われたのである。
数日前に友人は、
「おむすびの件なんだけど。おいしそうな店を見つけたから、差し入れしたいなと思って」
とメッセージを送ってきた。わたしに気を遣わせまいと、「私も食べたいから」と付け加えて。
おむすびなど、所詮、米を丸めて塩や海苔、あるいは具を突っ込んで完成させた庶民の食べ物。当然ながら、豪華なわけでも珍しいわけでもない。
それでも、わたしにとっては正に「カネ」と同等の価値があり、報酬として「おむすび」を受け取ることは、カネ以上の喜びすら感じるのである。
そして、まだ温かいおむすびをわたしに手渡すと、友人はそそくさと帰っていった。
――あぁ。わたしは、飛鳥時代に生きる社労士なのかもしれない。
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