信じられないかもしれないが、かなり年を取るまで"鍋焼きうどん"や"鍋焼きそば"というものを、わたしは食べたことがなかった。といってもこれは料理名ではなく、スーパーで売っているアルミ製の容器に入った「アレ」のことだが——。
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実家が貧乏だったわたしは、鍋焼きうどん・そばのような珍しい食べ物にありつくことはなかった。家の外でも、たとえば部活の後にコンビニでたむろする際も、食べるのはペヤングソース焼きそば一択だったので、鍋焼きうどん・そばと交わることはなかったのだ。
そもそもコンビニの場合は、カップ麺に熱湯を注ぐか電子レンジでチンするのが精一杯のため、"直火で加熱"などという贅沢は叶わない。よって、わたしがあのアルミ容器を前に、麺をハフハフする未来など想像すらできなかったのだ。
そして一人暮らしを始めてからも、あえて鍋焼きうどん・そばを購入することはなかった。なぜなら、火の存在が恐怖でしかないわたしにとって、ガスコンロを使用するなど正気の沙汰とは思えない自殺行為だからだ。
もしもなにかの間違いで、着ている衣服に引火したらどうしよう——。もしも誤って火事を起こしてしまったらどうしよう——。そんな不安を抱えてまで、ガスコンロを使って料理をするなどまっぴらごめんである。よって、ほぼ未使用のガスコンロの上には書類や果物が載せられており、油汚れのないピカピカなコンロが、わが家のキッチンの自慢でもある。
こういった理由からも、直火を使う料理とは縁のない生活を送っており、そのため、鍋焼きうどん・そばなど夢のまた夢というか、食べ物リストに名前が挙がることのない「珍味」のような存在だったのだ。
ところが今日、2023年を締めくくり2024年を迎えるに相応しい出会いがあった。なんと、あの薄っぺらいアルミ容器に入った熱々の鍋焼き天ぷらそばを、食べる機会に恵まれたのである。
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オニックスジャパンが秋冬限定で販売している「鍋焼き天ぷらそば」を持参した友人が、わが家のガスコンロのつまみを捻り、燃え盛る青い炎の上にアルミ容器を載せた。
いったいなにが起こるのかと、恐怖のあまり現実から目をそらしたわたしだが、そのうちどこからともなく「つゆのいい香り」が漂ってきたので、遠くから再びガスコンロを注視した。
(なんか、ものすごいご馳走ができている気配が・・・)
実家にいた頃を彷彿とさせるような、ぐつぐつと鍋の煮立つ懐かしい音が聞こえてくる。耳に心地よいだけでなく、胃袋をそっと刺激する優しいASMR——あぁ、なんと贅沢で貴重な光景だろう。
蕎麦屋で食べる「天ぷら蕎麦」の天ぷらは、サクッと軽やかな歯ごたえが特徴だが、「鍋焼き天ぷらそば」の天ぷらは、逆にしっとりとしているところがウリである。
さらに天ぷらの衣に染み込んだ自家製スープが、単なる天ぷらをワンランク上の存在へと引き上げるあたりに、鍋焼き天ぷらそばの秘めた実力がうかがえる。
そこへ友人は、おもむろに生卵を割り入れた。
(な、なんと。初日の出に見立てた"黄金の玉"を添えたということか!)
青く燃え盛る炎の上で、いぶし銀のアルミ容器に包まれた天ぷらそばが、沸々と完成の時が訪れるのを待ち構えている。天ぷらの色はスープによってきつね色に染まり、生卵の白身は半透明に変化しつつある。いよいよ、あの馳走にありつける時が来る——。
「できたよ!」
新聞紙の上に置かれた鍋焼き天ぷらそばは、アルミ容器のフチがぐにゃっとしているが、そこがまた手作り感満載で美味そうな雰囲気を演出している。その上、全体的に茶色で染まった天ぷらそばだからこそ、卵の黄身が際立って美しい。
そんな天ぷらそばをすぐさま啜りたいのだが、猫舌のわたしにとってそれは自殺行為となるため、蕎麦をすくい上げるとフーフー息を吹きかけて、しばし麺が冷えるのを待った。
こうして、いよいよ冷たくなった蕎麦を啜る・・いや、咀嚼する瞬間を迎えた。なにを隠そうこのわたし、麺類を啜ることができないのである。そのため、天から地に向かって顔を移動させることで、麺をパクパクと食べるのが"わたし流"なのだ。
パクパク——。
(こ、これは!!・・茹ですぎて柔らかくなった蕎麦といい、煮込みすぎて本来の形を失いつつある天ぷらといい、火力が強かったのか何らかの焦げ目が浮いたスープといい、これが蕎麦屋ならば「失敗作」であろう出来栄えが、逆に、手作りよる親しみやすさにアレンジされている。こんなにも人間味を感じる蕎麦を、食べたことがない!!)
わたしは無我夢中で鍋焼き天ぷらそばを食べ尽くした。そして最後の一滴までスープを飲み干すと、改めて空になったアルミ容器の底を見つめた。
(・・焦げている)
これこそが手料理の醍醐味である。完璧な料理を求めるならば既製品で十分だが、こういった不完全な部分の存在が手料理のあるべき姿なのだ。
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こうして、アルミ容器の「鍋焼きうどん・そば」というのは、わたしにとって"究極の手料理"に位置づけられたのである。
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