「いまどきの若い子って、干支(えと)が言えないんだって」
友人がそう教えてくれた。しかしこれはある意味「当たり前」といえる。
世界の流れとしてペーパレスからのデジタル化が進み、日本独自の習慣である「年賀状」の発行枚数も、右肩下がりどころかうなぎ下がりで落ちているからだ。
ちなみに年賀状発行枚数のピークは、2003年の44億5936万枚。1949年の初発行(1億8000万枚)から順調な伸びを示していた数字も、2003年を境に激減し、今年(2023年用)の発行枚数は16億4000万枚と発表された。
枚数にして、1968年頃の数字まで下がってしまった年賀状の今後は、どうなるのだろうか。
年賀状は一枚63円と、通常の無地のはがきと同じ値段。「お年玉くじ」が付いている分、お得なはがきといえるわけだ。
とはいえ、裏面にイラストや画像を印刷したり、一言メッセージを添えたり、はたまた宛名を書く手間と費用を考えると、一枚500円くらいの価値(負担)があるように思う。
それでも毎年、新年にポストを見る楽しみを与えてくれるのが年賀状であり、アナログな幸せがそこにはあるのだ。
そして年賀状は毎年、その年の干支(えと)がプリントされたデザインで販売されるため、来年が「何どし」であるかを知るきっかけとなっていた。
ところが、若者を中心に年賀状ばなれが起きているため、今年が何どしかを知る機会もなければ、知ったからといってどうなるわけでもない、ということになる。
このようして、さらに干支と疎遠になっていくのであった。
念のため、20歳の後輩に干支をすべて言えるか聞いてみた。
「ギリギリ言えました、干支!」
彼女は見事に十二支を列挙することができた。
だが怪しいのは、十二支の動物がスタンプで送られてきたことだ。もしかすると「干支」と入力すると、順番に動物のスタンプが出てくるのでは・・・。などと疑ってはいけない。なぜなら、
「十二支の昔話を、小さい頃に読んでたんです」
と、模範解答のような種明かしをしてくれたのだ。
これは間違いなく、干支を知っている若者である。
となると、「いまどきの若者は干支を言えない説」に暗雲が漂う。この説をなんとか立証するべく、わたしは21歳の後輩に干支が言えるか尋ねてみた。
「言えないです!」
おお、よかった。なぜかホッとする。さらに彼は「もっともな理由」を教えてくれた。
「今までの人生で、干支を言わなきゃならない状況に置かれたことはないんで、問題ないです」
ぐうの音も出ない正論である。たしかに、会話の中で「今年って何どしだっけ?」などという話にはまずならない。同様に、就活の面接で「干支をすべて言ってみてください」などと言われることもないだろう。
つまり干支を知らなくても、生きていくうえでは困らないのだ。
ここでわたしは密かに不安を覚えた。
干支はすべて言える。「すいへいりーべ」でおなじみの、原子記号のゴロ合わせのごとく、「ねうしとらう・・・」と口が勝手に動くからだ。
しかし、圧倒的に肝心で重要で簡単な「今日が何月何日なのか」を、思い出すことができないという事実に気がついた。
毎朝、アレクサに話しかけるわたしは、
「アレクサ、今日は何月何日?」
と、本日の天気とともに「日付」を質問するのがお決まりのパターン。
なぜなら、壁に貼ってあるカレンダーを見たところで、今日が何月何日か分からないからだ。
その点、アレクサは的確に「今日」を教えてくれるので便利である。
だが問題は、日付を聞いたことに満足し、その記憶が残らない点にある。
もっと言うと、今が「何世紀」なのか分からない。こればかりは呪われているかの如く、何度聞いても覚えられない。
およそ20世紀か21世紀のどちらかだと思うが、果たしてどちらなのかが分からない。かといって、今が何世紀かを知らなくてもさほど困らないので、いつまで経っても覚えないのである。
そんなことを言い始めたら、今年が西暦何年なのか、令和何年なのかも怪しいときがある。
さらに曜日の感覚がないわたしは、今日が何曜日なのかも気にしていないため、スマホやアレクサに教えてもらわなければ、それすらも分からないノータリンなのだ。
毎日、Googleカレンダーに表示される予定に沿って行動し、飯を食って仕事して寝て…の繰り返しで一日が終わる。
わたしにとって日付や曜日など、あってないようなもの。今日が終われば明日が来る、ただそれだけの繰り返しで時が過ぎていくのだ。
(こりゃ干支どころか、今日が何月何日か知らなくてもいい時代が来るかもしれないな・・・)
仮にこんな未来が訪れたならば、そのときこそ、「時代がわたしに追いついた」といえるわけだ。
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