寝汗と疲労の幸福論

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久々に寝汗をかいた。

寝汗といっても、朝起きたらビショビショだったわけではない。ついさっき、昼寝ならぬ夜寝から目覚めた際にビショビショになっていたのだ。

 

日頃、寝汗をかくことなどないわたしだが、ごく稀にこうなることがある。

そもそも人間は、就寝中にコップ一杯の汗をかくとされる。しかし局所的ではなく、全身からまんべんなく発汗するのだろうから、起床した時点でビショビショになることはない。

では何が違うのか?寝具を変えたわけでも、ストレスがたまったわけでもない。もちろん、悪夢を見たわけでもない。

 

そして不思議なことに、毎回、寝汗をかく時は「心地よいビショビショ」のため、寝覚めがいいのである。

今回も例外なく、首から後頭部にかけて汗びっしょりの状態にもかかわらず、爽やかに目が覚めた。

 

(久しぶりだ、こんなにも快適な睡眠を得たのは)

 

ソファからのそのそと起き上がると、首筋にエアコンの冷風が直撃。スースーして気持ちがいい。

そして同時に襲ってくるは、全身にまとわりつくドロドロの倦怠感。

 

本来ならば、これらの要素は迷惑でネガティブな存在だが、今のわたしには非常に貴重でありがたいものに感じる。

 

心身ともに、滅多に「疲労」を感じないわたし。そのため、フィジカルの疲労に対して喜びのような感情を抱くのである。

これまで身体の奥底に潜んでいた疲労が、今ようやく、感じられる階層にまで浮き上がってきたわけだから。

 

そんな重たい体を持ち上げながら、飲みかけの麦茶を冷蔵庫から取り出す。

(五臓六腑に染みわたる美味さだ・・)

2時間前も飲んでいた麦茶が、まるで風呂上りのビールのように美味い。風呂上りにビールなど飲まないしそれが美味いとも思わないが、一般的には「クゥ~!」っとなるシチュエーションだろう。

 

疲れを感じることが、こんなにも清々しくて充実したものであるとは驚きである。

普通は「疲れないに越したことはない」だろう。だが、麦茶と疲労が調和するこの感じ、全くもって悪くない。

 

寝起きの時点では、痺れているかのようにぼんやりとした指先が、今では鋭い感覚を取り戻している。鎖に繋がれた奴隷のように重たかった両足だが、水が浸透するかのようにみるみる軽くなっていく。

首筋の汗も瞬時に乾き、全身を巡る血流を強く感じながら、わたしは仁王立ちで麦茶を飲んだ。

 

痛みも含めて「感覚」が蘇るこの感じ、久しぶりである。そしてこれこそが、生きている証なのだと実感する。

痛みや苦しみといったマイナス要素を感じてこそ、人間は「生」を再確認するもの。

「生きててよかった」

と心の底から感じるのは、いつだって苦痛に顔を歪めるときである。

 

喜びや幸せは、自然と流れ込んでくる場合が多い。だがあえて、自らを苦痛に追い込む人生など、マゾヒズムの傾向でもなければ率先して歩むものでもない。

ということは、メンタルもフィジカルも苦痛を感じた時こそが、得難い経験の瞬間であり生きている証拠なのだ。

 

痛みや苦しみは、多かれ少なかれいつしか消える。だからこそそんな時は、目の前の苦痛を十分に味わいながら淡々と過ごすのだ。

何もしなくても明日は来る。であれば、その苦痛に感謝しながら明日を迎えたほうがいい。

 

繰り返しになるが、マイナスの経験など誰もが望まない。よって、そんな経験を与えてくれてありがとう、と思わずにはいられないわけで。

 

わたしは今、最高に幸せである。

 

サムネイル by 希鳳

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