奇跡のアイスコーヒー

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ヒトは一生のうちで何回、絶望を味わうのだろうか。

 

絶望といっても、二度と立ち直れないようなどん底から、あたかも望みは絶たれたかと思いきや、わりとすぐに復活できる落とし穴まで、レベルはさまざま。

そしてそれらの絶望は、受け取る人間の能力やキャパシティ、置かれた状況によって大きくも小さくもなる。

よって、誰かの絶望を嘲笑したり、非難したりすることはできない。

 

さらに絶望は、ときに圧倒的な「希望」に変わる瞬間がある。どん底であればあるほど、その大逆転劇は華麗かつドラマティックなものとなる。

生きていてよかった、今日という日を迎えられてよかった――。

ほんの小さな出来事かもしれないが、その奇跡は私にとって「今この瞬間」という、ごく当たり前のことに対する感謝を教えてくれたように思うのだ。

 

あぁ、心の底からありがとう!と言いたい。

 

 

私はいま、奇跡を体験した。通常ならば考えられないような事象が、目の前で起きたのだ。

 

なんと、購入したばかりのアイスコーヒーを一口も飲んでいないにもかかわらず、ついうっかり落としてしまった私。

腰の高さから垂直落下した透明なプラスティックカップは、予想以上の速度で電車の床に叩きつけられた。

にもかかわらず、床に横たわるアイスコーヒーは、一秒前と変わらぬ容量を保ったまま静かに横たわっている。

 

そう、一滴もこぼれていないのだ。

 

激しくシェイクされた漆黒のアイスコーヒーを見つめながら、私は小さく叫んだ。

 

(こ、こんな奇跡があるだろうか!)

 

 

今から三分前。池袋駅構内のドトールで購入した、氷抜きのLサイズのアイスコーヒー。氷がない分、見た目の量は半分ちょっとしか入っていない。

だが、体のためには冷たすぎない飲み物がいい。むしろぬるいくらいがベストといえる。

 

左肩にはショルダーバッグ、右手には菓子の袋を下げた私は、唯一空いている左手でアイスコーヒーを受け取るしかなかった。

「ストロー、挿しておきましょうか?」

そんな私を見かねたドトールの店員が、こう尋ねてきた。私はすまなそうな表情を浮かべながら、その提案を受け入れた。

 

電車の出発まであと一分。大荷物のせいで体の自由を奪われながらも、私は目指すべき車両の乗車口になんとか滑り込んだ。

お盆真っ只中、祝日も重なった本日は、さすがに車内が混み合っている。そんな家族連れで賑わう車内を、カニのように体を横に向けながらゆっくりと進んだ。

 

座席指定の電車における私の選択肢として、「ドア付近の席に座る」という暗黙のルールがある。

これは、もしも殺人犯と同じ車両に乗り合わせた場合に、犯人が毒ガスを噴霧したら真っ先に逃げるためだ。

 

車両中央では、ガスが充満して目や鼻をやられるかもしれない。そんなことに手こずるうちに、毒が体内に侵入して息絶えるやもしれぬ。

そういった「まさかの事態」に備えて、私は逃走が容易なドア付近を陣取ることにしているのだ。

 

「犯人が車両に入ってきた途端に、やられる可能性があるのでは?」

 

チッチッチ。犯人になったつもりで考えてみなさい。

最前列の乗客を仕留めたとすると、それに気づいた他の乗客らは一斉に後方出口へ押し寄せる。そうなると、被害が最小限に抑えられてしまう。

ならばあえて中央付近まで進み、大勢の注目を浴びながら犯行に挑むのが「犯罪者心理」というもの。

 

つまり、最前列は一周まわって安全なのだ。

 

このような理由から、一番前の座席を押さえた私は、車両の壁に固定されたテーブルに、アイスコーヒーを置こうとした瞬間、

 

ドサッ

 

完全に「やっちまった」音を聞いた。下など見たくもない。なんなら足元一帯がコーヒーまみれとなっているだろう。

特急の床にはグレーの絨毯が敷き詰められている。私はそこへ、真っ黒のシミを植え付けてしまったのだ。言い訳の余地もないくらい、自らの不注意によって。

 

この不祥事に気づいた周囲の乗客らはシンとなり、なんとも不穏な静寂が広がる。私の背中に刺さる、いくつもの視線が痛い。

だが電車は走り出している。こんなところで突っ立っていてはみっともないし、通行人の邪魔になる。

 

・・・よし、勇気を出して空のコーヒーカップを拾おう。そしてトイレからトイレットペーパーを拝借して、できる限り床のシミを取り除こう。

それこそが、いま私にできる精一杯の正しい行動だからだ。

 

ギュッと目を閉じると、おもむろに顔を下へと向ける。

さっさと片付けよう――。

 

 

ガタンゴトン、ガタンゴトン。

電車が走り抜ける音だけが響く車内。だがきっと、私の周りにいた全ての乗客が、心の中で拍手喝采していたことだろう。

 

(ブラボー!!)

 

目を閉じると、聴衆らのスタンディングオベーションが見える。誰もが笑顔で、両手を天へ掲げながら鳴り止まぬ拍手を送っている。

 

(ありがとう、ありがとうみんな!!)

 

そして私は「感謝」を忘れなかった。

こんな立派なプラスティックカップを使用しているドトールよ。日頃からスタバばかりを愛用していて申し訳なかった。

今後は、ドトールも私のルーティンに入れることを、この場で誓おうぞ。

 

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