珈琲の香りと殺意が湧く臭いと  URABE/著

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いつものごとくペーパーワークをするために、近所のスタバへ足を運んだ。偶然にも窓際があいていたので、ラップトップで席取りをするとコーヒーの注文にレジへと向かう。

スタバに限らずカフェのいいところは、焙煎されたコーヒー豆のフレグランスに満たされているところだ。カップに注いだコーヒーの香り、いわゆる「アロマ」も十分に幸せを感じさせてくれるのだが、個人的には、香ばしさと微かなオイルっぽさが広がる、深煎りのフレグランスがたまらなく好みである。

 

嗅覚はダイレクトに大脳辺縁系を刺激する。そのため、コーヒーの香りによって感情はコントロールされるのだ。辛いとき、悔しいとき、フレグランスに包まれながらアロマを堪能し、ゆっくりとフレーバーで満たされたならば、ネガティブな感情もほっこり温まること間違いなし。そんな小さな幸せを運んでくれるのが、コーヒーなのである。

こうして私は、コーヒーの香りに身を委ねながら仕事を進めていた。

ふと窓の外を見ると、ひとりの老人が杖を突きながらゆっくりゆっくり歩を進めている。年齢のせいなのか病気などの後遺症のせいなのか、足が不自由な様子。片足ずつ静かにゆっくり、私の横を通り過ぎていく。

老人がこの先どこへ向かうのか、特に気になったわけではない。だが、この街並みでは明らかに違和感を覚える彼の後ろ姿に、なんとなくパソコンの手を止めて見送ってしまうのである。

 

少しずつ少しずつ、距離にして10センチずつ前進する老人。脇目も振らず真っすぐ前をにらみながら、コツコツと杖を使って足を前に出している。そしてある時、ふと左へ向きを変えた。スタバの入り口だ。

あの老人がコーヒーを買うのだろうか。仮にそうだとして、コーヒーを手で運ぶことができるのだろうか。手提げ袋に入れたとしても、あの歩き方ではコーヒーはこぼれるだろう。かといって店内でコーヒーを味わう雰囲気ではない。

「ちょっと、いいかね」

自動扉が開くと同時に、老人はスタバの店員に向かって話しかけた。いや、声を振り絞って叫んだ。

「さっき注文したコーヒーが、まだ来ないんだが」

片足は店内、もう片足は店の外に置いたまま、上半身だけを乗り出す感じで店内に向かって怒鳴る。その姿を見て、若い店員が慌てて駆け寄る。

「お客さま、申し訳ございません。コーヒーを注文されたのですね?」

「そうだ。外まで持ってきてくれると言ったのに来ないから、ここまで来たんだ」

ここまでの会話を見守っていた私は暗い気持ちになった。老人の言っていることは嘘だ。なぜなら彼は、あの角を曲がって真っすぐこちらへ向かって歩いて来たばかり。注文をして外で待っていたわけではない。

「さようでございますか、直ちにご用意いたしますので・・」

「いや、もういらん。帰る」

女性店員が困り顔で老人を見つめる。老人の後ろには、青年が店内に入るタイミングをうかがっていた。だが、店の内と外を跨いだ状態で仁王立ちの老人は、避ける気配もなければ去る様子もない。

「お客さま、いかがいたしましたか?」

バックヤードからブラックエプロンの店員が現れた。ブラックエプロンは、言わずと知れたコーヒーのプロ。コーヒーマスターの認定を受けた後に、合格率10%程度の社内試験をクリアしたエリートである。

「わしの友達の娘が、さっき注文したのにまだ来ないって言うからね、わしがここまで来たんだよ」

ほら、どんどん話が変わっていく。しかしブラックエプロンは腰をかがめて、老人と目線を合わせながら真剣に話を聞いている。

 

そのとき、どこからともなく鼻をつんざくような異臭が漂ってきた。ホームレスの臭いだ。ギョッとして店内を見渡すが、当然そのような輩は見当たらない。

ということは、考えたくはないが目の前にいるこの老人以外に、悪臭の発生源は考えられない。

(た、頼むから、外で話してくれないか)

私が思わず鼻を曲げたとき、老人の後ろで様子をうかがっていた青年も、マスクの上から鼻を抑えてその場から立ち去った。

(間違いない、あの老人だ)

 

そしてまだまだ延々と老人の発言は続く。最初の話から二転三転して、今では「先日の出来事」として文句を訴えていた。

 

私はここへ、ホームレス臭を嗅ぎに来たわけではない。焙煎したコーヒー豆の深いフレグランス、リッドを外すとふわっと立ち上る柔らかなアロマ、そして口に含んだときに広がる芳醇なフレーバー。それらのポジティブで豊かな香りを満喫するために、足を運んだのだ。

それなのになぜ、マスク越しでも耐えられないほどのホームレス臭を、強制的に嗅がされなければならないのだろうか。

 

老人に悪意はないだろう。ホームレスなのかもしれないし、住み家はあるが不潔なだけなのかもしれない。おまけにボケている。

それでも、私の大脳辺縁系をいたずらに刺激するこの悪臭には、殺意を抱かずにはいられなかった。

 

(了)

 

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