純文学のすゝめ

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わたしは今、未知の世界へ足を踏み入れようとしている。正確には、すでに一歩を踏み出したのだが、果たしてそれが正しい一歩かどうかは別の話である。

 

「無冠のパティシエ」として有名な友人はこう言った。

「なにか僕に、おすすめの店か料理を伝えてみたまえ。それで君のすべてが分かる」

これはかの有名なシャネルの創設者ココ・シャネルや、「美味礼賛」の著者である美食批評家のジャン・アンテルム・ブリア=サヴァランらが残した名言をパクった、いや、オマージュしたものである。

つまり友人は、ありとあらゆる店と料理を体験しているため、相手の好みを聞けばすぐさま、その人の性格や趣味趣向、裏の顔までもが分かるというのだ。

 

これはたしかに一理ある。なぜなら友人は店も料理も「知っている」からだ。さらに、そんじょそこらの人よりも食に精通しているため、どんなタイプの人間がその店や料理を好むのかを熟知している。それゆえ、相手のすべてが分かると豪語できるのだ。

 

しかしわたしは、経験したこともなければ意味もわからない、そんな分野へ足を突っ込んでいるのだからたちが悪い。その分野とは「純文学」というものだ。

純文学という三文字から連想するに、純粋な文学のことだと推測できる。似たような言葉で「純喫茶」というものがあるが、あれも純粋に珈琲だけ(簡単な軽食も可)を提供する喫茶店、という意味であり、酒類の提供や女性による過度な接客は禁止されている。

 

では「純」を取り除いた「文学」についてはどうか。正直、よく分からない。であれば文学とはなにか?をネットで検索したところ、やはり小難しくて理解できない。

ただし、日本文学の有名な著者については、その名を耳にしたことのある人物が並ぶ。夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介、太宰治などなど。

しかし驚くべきことに、彼らの名前を読むことはできても、誰一人として書けないことに気がつく。あぁ、ここまで書く力が衰えたとは。

 

とにかくだ。彼らの作品がいわゆる文学というもので、ましてや文豪と呼ばれる人の作品とあらば、純文学という認識で間違いないだろう。

とそこへ友人からコメントが届く。

「私は、森鴎外の雁が好きなんだ」

まず迷ったのは鳥の名前だ。森鴎外(もりおうがい)は辛うじて読める。だが、本のタイトルであろう「雁」は、「カリ」だろうか「ガン」だろうか。

 

スマホで文字変換すると、雁という字で「カリ」とも「ガン」とも読めるではないか。マズい、どっちだ?

とりあえず鳥の種類を確認する。語源由来辞典によると、

「ガンとは、カモ目カモ科の水鳥のうち、ハクチョウ類を除いた大形の水鳥の総称。ツバメとともに日本における代表的な渡り鳥。」

さらに語源・由来を見ると、

「上代には『カリ』と呼ばれていたが、室町時代頃から『ガン』が現れた。次第に一般名として扱われるようになり、現代では『ガン』が正式名、『カリ』が異名という扱いをされるようになった。」

と書かれている。つまり、ガンとお呼びすればいいらしい。

 

雁という鳥について理解できたところで、友人からメッセージが届いた。

「貧しいあまりに高利貸しの旦那の妾として囲われた女性が、家の前を歩くさわやかな学生に惹かれてモジモジする話だよ」

これを読んで衝撃を受けた。なんと、鳥の話ではなかったのだ。

 

(こ、これが純文学というやつか!!)

 

脳天を突き抜けるほどの衝撃を受けたが、だからといって森鴎外を読もうという気にもならないのが、わたしの全く以てダメなところ。

 

とりあえず純文学というのは、なにやら奇想天外で甘酸っぱい青春時代を綴った小説に違いない。よって、そこだけは外さないように執筆を開始しようと思う。

 

サムネイル by 希鳳

 

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