宣誓

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たった一度の人生、後悔だけはするまいと決めている。何があっても自己責任、わたしが決めてわたしが責任をとるだけのこと。

「誰々の助けがあったから成功した」なんてことで、果たして心の底から喜ぶことができるのだろうか?少なくともわたしは無理だ。他人の力で成功したのならば、それは他人の成功でしかない。成功という結果だけを手に入れることは、例えるならば、金持ちからおこぼれをもらうのと同じ価値でしかない。

わたしはわたしの力で這い上がり、全てにおいて自力で勝ちたいのだ。人生の勝者として、高らかに笑うのはわたしでなければならないのだ。

 

とはいえ、時には誰かの助けが必要な場面もある。人間である以上、一人で生きていくことはできないからだ。仮に友達が一人もいない嫌われ者だとしても、この世界で生きていく以上は誰かの世話になり、間接的に誰かとかかわる必要がある。

カネを得るにも、快楽を得るにも、孤独を得るにしたって「他人」がかかわってくる。カネを得るには、仕事をして対価としてカネをもらうという正統派なやり方もあれば、誰かを騙してカネを奪い取るのもそうだし、どうしたって他人とかかわる必要がある。

快楽も同じだ。時には一人で楽しむこともできるが、多くの場合は直接間接を問わず、他人の存在が必要となるだろう。

そして孤独について、そもそも「孤独」というシチュエーションは、他人から断絶された状態を指す。つまり孤独になるには他人から孤立する必要があり、他人がいなければ成立しないわけだ。屁理屈に近いが、極論はこうだろう。

 

何かを学び、習得し、披露するにしても、教わるべき師の存在、習得過程での仲間の存在、披露する時点でのオーディエンスと、それぞれの場面で「誰か」の存在がちらつく。そもそも他人との比較が不要な世界ならば、戦う必要もなければ進化する意味もない。己の存在一つで生きていけるのならば、己の変化や成長など自己満足でしかないわけで、なぜバカみたいに切磋琢磨して生きているのかといえば、他人の存在があるからに他ならない。

つまりこの世で生きていく限りは、誰がなんと言おうが「誰か」の存在と無縁でいることは叶わない。僻地で暮らす生活保護受給者であったとしても、その生活保護費を振り込む役所の人間がおり、定期的に受給者の面談を行う職員がおり、必ず誰かの世話になっているのだから。

 

だからこそ、「自分の力で成功した」だなんて勘違いを推奨しているわけではない。口にするまでもなく、わたしの成功は誰かのサポートや後押しがあったからこそのもので、決してわたし一人の力で成し得たわけではない。いや、むしろ誰かの力がほとんで、わたしは最後の最後、まさに漁夫の利で「成功」という美味しい果実をもぎとったにすぎない。

しかしそれでもいい。うまくいったことに関しては、誰かと分かち合うことで喜びも倍増するからだ。だが失敗に関しては、決して誰かと分かち合いたくはない。あくまでわたしの責任であり、そこまでに誰が何人関係していようが、最終的な決断を下したのはこのわたしである。その失敗はわたしが選び、導いた結果でしかないことを、大声で宣言しておきたい。

 

最後に、わたしは結果を求めて生きているわけではない。むしろその過程を楽しんでいるのだ。変化しつつ何かを眺めたり体感したりしながら、過ぎ去っていくそれらを見送ることで、自分事でありながらもどこか他人事のような、同じ事象にもかかわらず主観と客観で二度楽しめるような、そんな人生を送りたいと願っているのだ。

つまりその結果、世間一般では「失敗」と呼ばれる形に収まったとしても、わたしにとっては失敗ではない。それは単なる結果であり、見方によっては成功なのである。断じて負け惜しみなどではない、そんな一方通行の考え方しかできない「パターン人間」に、わたしの人生の醍醐味など評価されたくもないわけで。

 

前置きが長くなったが、本日、わたしはウーバーイーツのサブスクリプションサービスであるEatsパスを、満を辞して購入した。かつて、ウーバーイーツで月28万円を叩きだし、破産寸前まで追い込まれた過去がある。だが過去は過去であり、振り返ることなく前だけを見て歩いていきたい。

わたしの人生はわたしだけのものだから。

 

サムネイル by 鳳希(おおとりのぞみ)

 

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