そのオトコは、健康オタクで平和主義者

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(ムッ・・痴漢か? いや違う、単なる変質者か?!)

改札に向かって歩いていたわたしの横を、一人のオトコが通り過ぎた。視界に入ったその姿に違和感を覚えたわたしは、身構えながらもそいつの動向をうかがった。

 

東京は人種の坩堝であり、エリートもいればザコもいる。全ての出会いが一期一会であるかのような、そんな刹那を感じさせる大都会において、痴漢や変質者の一人や二人は珍しくない。

そしてわたしは、常日頃からこういったニンゲンに対してアンテナを張っているため、僅かな違和感をも見逃さないのだ。このオトコ、怪しい——。

 

首回りが変色したヨレヨレのワイシャツ、見るも無残にはみ出た脂肪まみれの腹、そして汗と脂で不潔に湿った頭髪。これらの要素だけでも変質者認定できそうだが、不自然に伸びた薄汚い手にはスマホが握りしめられている。——そう、このオトコは盗撮しようとしているのだ。

 

今のご時世、防犯カメラやNシステムで街中が監視されているというのに、こうも堂々と右手を掲げてスマホで盗撮するとは・・ん? 掲げている、ということはスカートの下へスマホを差し込んでいるわけではない。ではいったい何を撮影しているんだ?

 

高らかと掲げたそのスマホには、何らかの動画が流れている。さらによく見ると、両耳にはイヤフォンが差し込んである。つまり、このオトコは駅構内を不審に撮影していたのではなく、ただ単に動画を視聴していただけなのだ。

ではなぜ頭上にスマホを掲げて、いや、正確には目の高さに置いているのか。・・それは、このオトコが健全かつ人類平和を強く願っているからである。

 

まずは「健全」について。イマドキの青少年は、その多くがストレートネック、またの名をスマホ首と呼ばれる症状に悩まされている。これは、手元のスマホを長時間見続けることで起きる現代病でもある。

人間の頭部はおよそ5キロあり、頭を支える首(頚椎)にカーブがついていることで、その重さを分散させている。だがスマホの出現とともに、一日の大半をうつむいて過ごすこととなり、そのせいで前傾した頚椎がストレートネックを引き起こしているのだ。これにより、肩こりや頭痛、手指のしびれ、めまいや吐き気などが発生し、症状が酷くなると日常生活に支障をきたす場合も。

そしてこのオトコは、ストレートネックを回避するべくスマホを視線の高さに保っている。周囲からどれほど不審がられようが、腕が疲労でプルプル震えようが、己の頚椎の健全を最優先しているのだ。

——あぁ、なんという健康オタク。

 

次に「人類平和」について。これは言うまでもなく、スマホに夢中になるあまり他人とぶつかり、そこから口論となり殴り合いの喧嘩となるリスクを避けるためだ。

昨今、気の短い輩が増えた。ちょっと手が触れたくらいで激昂したり、よろけてぶつかっただけで胸ぐらをつかんだりと、感情のコントロールができない幼稚なオトナがそこかしこに存在する。

そしてヤツらは理不尽にキレるため、こちらに非があろうがなかろうが、謝罪したところですんなり引くことはない。そんな事故に巻き込まれぬよう、未然に回避するべくスマホを目の位置に据えているのだ。しかも右目の前にセットするというぬかりなさ。つまり、右目で動画を見つつ左目で周囲に注意を払っているのである。

——お、恐るべき平和主義者。

 

己の健康と人類の平和を貫くこのオトコの、強靭な意思と崇高な理念には脱帽だ。しかし、冴えない中年が高々と掲げるスマホというのは、「怪しさ」という異物感しか発していない。

そのため、すれ違う通行人の視線はオトコに集中し、むしろ痛いくらいに突き刺さっているのである。正面から向かってくる人間からすれば、「自分が撮影されている」と勘違いするに決まっている。それが原因となり、要らぬトラブルを招く恐れもあるわけで。

だがこのオトコは、そんなリスクも含めて独特なフォームを、いや、ポスチャーを保っているのだ。

 

(・・まぁ、どうでもいいや)

 

わたしは不審者を抜き返すと、足早に改札を通り過ぎた。

 

Illustrated by 希鳳

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