昨日、赤坂の焼肉店で久々に暴食した。都内はまん延防止等重点措置が実施されており、多くの飲食店が時短営業を強いられている。
しかし都心の繁華街・赤坂はリアルを生きる街。煌々と輝くネオンに包まれ、多くの飲食店が顧客の訪れを歓迎していた。
半年前にオープンしたこの店は、注文した肉を店員がもれなく焼いてくれるシステムがウリ。わたしは内心こう思った。
「きっとそのほうが、回転が早いんだろう」
浮かれ気分の一般客にアルコールでも入った日にゃ、オシャベリに花が咲いて肉を焼く手が止まる。いつまでたっても肉の皿が空かないことに、店員はヤキモキするだろう。
それを阻止すべく、店員自らちゃっちゃと肉を焼くことで、スピーディーに下膳までコントロールする作戦に違いない。
この推理を実証すべく、目の前の鉄板にシロコロホルモンを並べる店員へ尋ねた。すると意外というか、まっとうな答えが返ってきた。
「スピードでいくと、お客さんが自ら焼いてくれたほうが早いんですよ」
なに?!わたしのひねくれた予想が早くも覆された。
「それよりも、肉をベストな状態で食べるのがすごく難しいんですよ」
たしかにどれがベストな状態なのか、わたしにはサッパリ分からない。
「たとえばこのホルモン、見た目じゃ分からないんですよ。トングで挟んだ感触で、お、イケる!って感じなんで」
トングでイケる、か。そのようなスキルを持つ店員に、我々シロートが敵うはずもない。この店は肉の質にもこだわりがあるため、最高の状態で味わってもらうことこそがサービスである、と捉えているとのこと。
オーナーの爪の垢を煎じて飲みたいくらいだ。
こうして、注文した肉をすべて最高の状態で堪能したわたしは、作り手の想い、いや、プライドに触れた気がした。
わたしの胃袋へ運ばれるまでに、どれほどの月日と手間とカネがかかっていることか。それを、最後の最後で黒焦げにして口へ放り込んだ挙げ句、「苦(にが)っ!」などと顔をしかめられた日には、生産者に始まりテーブルへ運んでくれた店員に至るまで、全ての関係者に殺されかねない。
そうだ、ベストな状態で食してこそ、全ての人が報われるのだ――。
*
誰かが作ってくれた料理へのマナーとして、自分勝手な食べ方をしないと心に誓ったわたしの元へ、第二の母から相撲部屋ならぬURABE部屋への差し入れが届いた。
段ボール箱にぎっしりと詰まったどデカいタッパーに、これまたぎっしり詰まった五目炊き込みご飯、鶏肉と大根と人参と椎茸の煮物、そしてデザート風サツマイモの甘煮と丸ごとチャーシューが、所狭しと積み上げられている。
さらには、不透明なタッパー越しからでも伝わる「手作りの美味さ」の破壊力たるや。
本来わたしは、手作りの食べ物をそのまま食べる派。レンチンが面倒くさいわけではないが、なんとなくその人の空気感を損ねないように、料理を作った時の状態に手を加えることなく味わいたい、と考えているからだ。
(よし、うまくまとめた!)
しかし、そんなズボラなわたしをとっくに見抜いている彼女は、事前にこのような忠告を送ってきた。
「(前略)どれも少しあたためた方が美味しいと思うわ。特にチャーシューは、脂身のところが白く固まっていると美味しくない。透き通った状態がベストです。」
まるで大学教授から実験について助言されたかのような、返事は「ハイ!」しか存在しないような、圧倒的な正義を感じる内容だった。
とはいえ、昨日までのわたしならばこのような忠告もガン無視で、冷たいままのチャーシューにかじりつき、「うまい、うまい」と大喜びで食べ尽くしただろう。
しかし昨日、生産者からエンドユーザーに至るまで、すべての関係者に対して仁義を欠いてはならぬと言い聞かせたばかり。よって、このチャーシューも脂身が透き通るくらいに温めてから、かぶりつく必要がある。
こうして、ズボラなわたしはチャーシューを丸ごとレンジへ入れると、「あたため」ボタンを押した。これならばレンジが勝手に温めてくれるので、わたしが時間調整するよりもいい塩梅でやってくれるだろう――。
*
たしかに、ほどよく温めたチャーシューは絶品だった。豚肉のうまみが単一ではなく、噛めば噛むほどにじみ出てくる「味」を感じた。
今後は、肉に関してはきちんと温めてから食べることにしよう。
コメントを残す