興味がないといえばそれまでだが、正直「さほど違いはない」と思っていた。いや、むしろ「同じもの」だと思っていた。にもかかわらず、なぜ名前が違うのかは分からないまま大人になった。
そうだ、たとえるなら「クッキーとビスケットの違い」くらいの差だと思っていた。そしてこの二つ、じつは同じものなのだ。
ビスケット類の表示に関する公正競争規約及び同施行規則の第2条(定義)によると、ビスケットのなかでも特別に「クッキー」を名乗りたいのならば、いくつかの条件をクリアする必要がある。簡単に抜粋すると、
「手作り風で、風味よく焼きあげたもの」
ということらしい。つまりクッキーというやつは、上品さを鼻にかけた「いけ好かない存在のビスケット」を指すのだ。
とにかく、クッキーとビスケットに次ぐくらい同じものだと思っていた料理がある。それはミートソースとナポリタンだ。今だから暴露するが、ミートソースをグルグル混ぜたものがナポリタンだと思っていた。なぜならば、見た目がそんな感じだからだ。
そしてわたしは、実家はおろかレストランでもナポリタンを注文した記憶はない。今でもミートソースは好んで食べるが、同じメニュー上にこの二つが記載されていても、ナポリタンを頼むことはまずない。
子どもの頃、ナポリタンに抱いていた印象の一つは、
「なぜ楽しみをとっておかないのだろう」
ということだった。意味がわからない人もいるだろうから、ちょっと考えてみてほしい。
まずは一般的な「カレーライス」を思い浮かべてもらいたい。皿に敷き詰められたツヤツヤのライス、その半分から4割程度にカレールウがかけられている。豪華なカレーならば、ライスとは別に銀の容器に入れられたルウが出てくることもある。ちなみにあの銀の容器は「グレイビーボート」というらしい。
カレーではなくハヤシライスでもいい。いずれにせよ、ライスとルウがごちゃまぜになって出てくることなどないわけで、ライスが放つ白い輝きとカレーが醸し出す圧倒的な存在感とのコントラストこそが、カレーにとって一番の醍醐味といえる。
さらに重要なのは、素材それぞれの楽しみ方だ。みずみずしい白米は噛めば噛むほど味が出る。カレーのルウもインドではスープとして単独で味わう。それぞれをじっくり楽しんだ後に初めて合体させるからこそ、尊い喜びが生まれるというものだ。
このカレー理論をそのまま、ナポリタンに当てはめてみてもらいたい。完全におかしいだろう。だがミートソースはこの法則を守っている。だからこそパスタのクリーム色がミートソースのブラウンを引き立てているし、味だって二度楽しめる。パスタ自体の小麦の味を噛みしめつつ、ソースと絡めたハーモニーをも堪能できるといった感じに。
よってわたしは、ずっとナポリタンが許せなかった。なぜ最初から混ざりあっているのか、なぜパスタに色を付けてしまっているのか、子供心ながらに解せなかったのだ。
さらにもう一つ、ナポリタンが残念でならない理由がある。それは、食べ終わると口の周りがオレンジ色になることだ。ナポリタンを食べた友人は、決まって口の周りをオレンジに染めていた。雑に食べたわけでもないのに、マンガのキャラクターのようにオレンジの輪で縁取られた友人の口を見ると、こみ上げてくる笑いを堪えるのに苦労したものだ。
――そんなわたしが今日、満を持してナポリタンを食べた。帰宅途中に近所のスーパーへ寄ったところ、弁当コーナーにちょこんと残っていたのがナポリタンだった。これといってとくに食べたいものもなければ、料理など当然しないわけで、レンチンで済む食べ物がそれしかないのだから仕方ない。
期待などこれっぽっちもせず、無表情にナポリタンを手に取ると、さっさとレジへと向かった。
*
いまナポリタンを何口か食べたところだ。とっくの昔に大人になったわたしは、ナポリタンとミートソースが全くの別物だということを身をもって、いや舌をもって知った。
ナポリタンは酸っぱい。なぜなら味付けがケチャップだからだ。ミートソースにもケチャップは入っているが、主にホールトマトなどの「トマトソース」で味付けされている(らしい)。
さらにナポリタンはタマネギの存在感が強すぎる。その次に存在感を示すピーマンにもいえることだが、刺激の強い野菜の主張が激しい。
そしてわたしはケチャップがあまり好きではない。よって、そもそもナポリタンは得意ではなかったようだ。
――いつか手作りの美味いナポリタンが食べられることを願いつつ、静かにフォークを置こう。
サムネイル by 希鳳
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