ーーハンコを完全に不要にしてもらいたい、今すぐ。
そう思いながら、みるみる流れていく文字と印影を眺める。為す術もなくただ見守るだけの状況で。
*
書類の申請に某所を訪れた。
窓口へ提出する前に、わたしは入り口の横にある小さなテーブルを使い、申請書類へ「提出日」の記入を始めた。
当然のことながら、提出日当日の日付を記入しなければならないので、毎回ここを空欄にしておき、現地で最終確認を兼ねて埋めるようにしている。
全ての書類に「日付欄」があるあため、何枚も記入をしなければならず、小さなテーブルだと書きにくい。
だが、バインダーもなければ他にテーブルらしきものも見当たらず、「膝の上で書いて穴をあけるよりはマシだ」と思い、せっせと2021/5/17という数字を書き続けた。
シューッ
か細いせせらぎのような音が微かに聞こえた。だが気にも留めず、日付の記入を急ぐ。
そして書類をめくろうとした瞬間。書いたばかりの数字の上にツツッと液体が流れてきた。
???
細流を伝って目を上のほうへやると、なんとそこには大洪水が起きていたのだ。
書類の紙面上に大きな水たまりができ、さらに下の書類へとじわじわ浸水している。
ーー理由を説明しよう。
「入り口の小さなテーブル」というのは、入室時にアルコール消毒をするためのボトルが置いてある台のこと。
その台の隅っこを使い、書類に日付の記入をしていたのだ。
設置されている消毒液は手をかざすとセンサーが反応し、スプレーノズルからアルコールが噴霧する仕組みになっている。
そしてわたしは、数字を記入することに必死のあまり、書類がセンサーの真下に入り込んだことに気が付かなかった。
仕事熱心で真面目なセンサーは、自分の下に何か(おそらく手だろう)が現れたため、いつも通り「シュッ」と一噴きする。しかも今回に限って、「シュッ」ではなく「シューッ」だった。
もしかすると、センサーが反応する間は液体が出続ける仕組みなのかもしれないが、結果として大量のアルコールが書類に噴霧された。
さらに悲惨なのは、このアルコールミストは軽くフワフワした霧状ではなく、水分量が豊富な重たい小雨だったため、紙に滲み込まない余剰分は「小川」となって下方へ流れていく。
こうして、わたしの視界に液体が現れたのだ。
だがその時、恐怖の事件が起きた。
(なにっ!!印影が消えていく!!)
なんと、捨印として紙面上部に押印されていた印影が、アルコールミストにより消失したのだ。
ボールペンで書いた文字が消えるのも困るが、印影が消えるのは一大事。
第一、このことをクライアントに何と説明すればいいのだ。
「アルコール消毒の下で書いていたら、勝手に噴霧されて消えてしまいました」
などとは、口が裂けても言えない。かといって誰かのせいにはしにくい状況だ。明らかにわたしのミスでしかない。
そうこうするうちにさすがアルコール。みるみる書類が乾いていく。わたしはハッとなり、下に重なる書類をめくる。
二枚目、三枚目は全滅だーー。
*
多分、あれが「朱肉」で押印されいたならば、アルコールにより浮き上がり、流されて消えることはなかっただろう。
朱肉の歴史は古く、日本においては奈良時代から使用されてたようだ。
だが今回の書類は、ゴム印を押すときの赤いスタンプ台(水性インク)を使ったから、消えたのだと予想する。
ちなみに公的な書類への捺印が義務化されたのは、明治6年交付の「太政官布告令」によるもので、これこそが憎き「ハンコ文化」の幕開けとなった。
殊に「捨印」の意味不明さも気に入らない。捨印がまるで「万能」であるかのような扱い、そして「捨印がなければ受け付けない」などという横暴な振る舞いが、許されて良いのだろうか。
わたしは断固として反対だ。ナンセンスだし、時代遅れも甚だしい。
ーーそう心の中で呟きながらも、頭はクラクラで、立っているのがやっとだった。
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