キ怒アイラク

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怒り、というやつのやり場に困る。

この感情は自然に溶けてなくなることはなく、どうにかして体外へ吐き出さなければならない。

喜怒哀楽でいうと、喜びと哀しみと楽しみについては涙で代用できることが分かった。ところが、怒りについては涙がなかなか出てこないのだ。

 

 

2週間前、肋軟骨を骨折してから色々と見る目が変わった。なんというか、弱者に優しくなったし物事の細部にまで意識を張り巡らせるようになった。

とはいえ、怪我人であることを受け入れるまでには時間がかかった。わたしなら大丈夫、という根拠のない自信のせいだ。
しかしある瞬間を境に、そんな現実を受け入れざるを得なくなる。

それは、歩行途中にチワワ(老犬)に抜かれたときだった。

あの時までのわたしは、身体的な痛みは朝起きたら消えているんじゃないか、と信じて疑わなかった。そしてたまたま、それが今日じゃなかっただけだと。こうして「すぐに骨がくっつくイメージ」を描きながら毎日を過ごしてきた。

 

ーー数日前のこと。道をノロノロ歩いていると、シロガネーゼに手綱を引かれた老犬のチワワが、いとも簡単にわたしを追い越した。

とっさにわたしはアバラを抑えながらチワワの横へと並んだ。べつに意識したわけではないし、こんな小犬ごときと争うなど大の人間がするはずもない。

ところが、必死の努力も空しく再度チワワに追い越される。

奴はこちらに一瞥をくれることもなく、ただ前を向いてスタスタと歩き続ける。

 

この瞬間、わたしは現実を受け入れた。

 

もはやわたしはこの小さな老犬にすら勝てない。こいつは対抗意識を燃やすどころか、容赦なくわたしとの距離を広げていく。

それに比べてわたしは、もうこれ以上のスピードを出すことができない。

ーー完敗だ。

 

この頃から周りを見る目が優しくなった。そしてちょっとのことでも「面白い」と感じられるようになった。ひねくれ尖っていた精神が丸くなったのだろうか。

なかでも無意識にプッと吹き出すことの多さに驚く。

 

ここは都内のバー。薄暗い店内にひときわ目立つテーブルがある。なぜかそこだけがライトアップされているのだ。

だがよくよく見ると、その丸いライトは照明ではなくスキンヘッドのオッサンの頭じゃないか!よりによってオッサンの目の前にムーディーなランプが置いてあり、その灯が磨きあげられたヘッドに反射して周囲を明るくしていたのだ。

 

こんな小さなことにもウッとなり、慌ててアバラと口を押える。笑ってはいけない。アバラに響くしオッサンにも失礼だ。笑ってはいけないーー。

 

その結果、両目からポロポロと涙がこぼれる。一緒にいた友人は驚き狼狽する。

「大丈夫?アバラが痛むの?」

 

わたしが編み出した「笑いをこらえるコツ」は、脳内が無機質な薄い板になるイメージを持つことだ。細かく呼吸をしながら、必死にそのイメージを作る。決して笑ってはいけない、痛い思いをするのは自分なのだから。

ーーおよそ10秒後、笑いの波がおさまる。

 

つまり笑いをこらえると涙が出るが、結果としてある程度の「おかしさ」は消化できる。それに比べて、怒りというやつはーー。

 

 

器の小さいわたしは、仕事での伝達事項に不備があるとイライラする。とくに何度も注意をしてきたにもかかわらず、同じミスを3回以上繰り返されると、堪忍袋の緒が切れそうになる。

個性も能力も人それぞれであることくらい、分かっている。

分かっているからこそ、激怒することなく冷静に穏便に何度でも言い方を変えて「お願い」する。

 

しかし労働者の人数が数十人を超え、全員に対して同じミスが起きている場合、そして間違いなく「伝達ミス」でそうなっている場合、これはなんとも意識が遠のきそうな怒りを覚えてしまう。

 

ワカッテイル、ワタシノウツワガチイサイノダ。

 

こんなとき、このくさくさした気持ちを涙で帳消しにできたらどんなに楽だろう、と思う。

笑いをこらえる代わりに涙をポロポロこぼすことで、おかしい気持ちが落ち着く。

同じように、怒りをこらえる代わりに涙で消化できれば、わたしはまた黙々と仕事を続けられる。

 

だがなぜか、こんな時にかぎって涙が出ない。

 

時間が経てば怒りは薄れる、日にちが過ぎれば怒りを忘れる。おおよそ間違っていない。しかし仕事に関しては、これからも繰り返されるであろうストレスを拭うことができない。

ーーどうせまた、同じミスをするから。

 

いっそのこと、ここで一発「デカいくしゃみ」をしてやろうか。アバラに激痛を走らせることで、多少は目が覚めるかもしれない。

何らかの感情が動かない限り、わたしの怒りは消えないだろうから。

 

 

Illustrated by 希鳳

 

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