中年というのは、望もうが望むまいが体にガタが出る年代である。
たとえば賃貸マンションを選ぶ際に、築40年という物件を見て「まだ新しい」と思うことはないし、車に至ってはもはやパーツも存在しないレガシー的存在なわけで、人工物の中年といえば「価値がないどころか、負債の側面のほうが大きい」という、悲しい年代なのだ。
しかも、我々の臓器や血管というのは、生まれてから死ぬまで交換やメンテナンスをすることなく稼働し続けているのだから、まさに驚異的といえる。これが人工的に作られた機械だとすると、何十年も部品交換やオーバーホールなしで稼働させることなど、ほぼ不可能に近い芸当なわけで——。
とくに、完全な人工化が困難である「血管」など、大動脈や人工透析シャントといった一部の血管を除くと、パイプ(血管)が脆くなったり詰まったりすれば致命傷となる。
(・・これが車だったら、冷却水を回すホースが破れても、応急処置としてテーピングを巻いてその場を凌ぎ、新しいホースに交換すればまだまだ走れるというのに)
また、病気や怪我などで人工臓器を移植することもあるが、すべての臓器が移植可能とはいかず、それをもって健常者と同等の健康や自由を手に入れられる・・というわけでもないため、生まれながらにして備わった組織や器官の性能および耐久性というのは、恐ろしくハイレベルであることを実感させられるのだ。
というわけで、中年真っ盛りのわたしはここ最近「ちょっとした不安」に苛まれている。それは、至近距離で文字や物体を見ようとすると、見え過ぎて眼圧が上がるようなプレッシャーを感じる・・という症状だ。
「まさか、これが老眼ってやつか?!」と、焦りと共に老化を懸念したわたしは、周囲にいる同世代の友人らに老眼について尋ねてみた。だが、老眼を自覚している者いわく「近くがぼやけて見づらい」というのだ——近くがぼやける・・?
わたしは強度近視のため、コンタクトやメガネを外すと7センチより先(遠く)を見ることはできない。よって、「もしも老眼になったら、至近距離・・すなわち7センチ以内も見えないし、それ以上も当然ながら見えない。そうなったら、何も見えなくなるじゃないか!!」という恐怖がある。
もちろん矯正すれば遠くは見えるため、老眼の部分は老眼鏡で補えばいいのかもしれないが、役所や病院に置いてある老眼鏡をかけてみたところ、見やすくなるどころか逆になにも見えない——ということは、これは老眼の症状ではないのか。
以前、目の主治医がこんなことを言っていた。
「加齢とともに水晶体の状態が変化(硬化)した結果、レンズの度数が下がることもあるんだよ」
そういえば、「コンタクトの度数を下げても、前と同じくらい遠くが見えるようになった!」と喜んでいる知人がいたが、あれは水晶体の弾力低下の影響だった可能性がある。本人からすれば、あたかも目がよくなったかのような嬉しい勘違いだが、実際のところは「顕著な老化現象」という悲しい現実を突きつけられた瞬間だったわけだ。
そういう意味では、わたしの場合「近くが見えない、または見づらい」ということではないので、今のところ直接的な不便や不都合を感じることはない。だが、水晶体や毛様体筋の硬化すなわち老化により見え方が変わってきた・・と考えるのが自然だろう。
とはいえ、ビジョントレーニングの結果は優秀で、ピント調整や眼球運動の速度は衰えていない。それでも、影を潜めて忍び寄る「老化」という闇に飲まれる日も、じつは近いのかもしれない——。
*
(あ、身近なところにアンチエイジングの権威がいたな・・)
日本で初めて「アンチエイジング外来」を設立した、友人であり大先輩である某ドクターのことを思い出しながら、抗うことのできない時の流れを嚙みしめるわたしなのであった。




















コメントを残す