逃げの気持ちが招いた、数ミリの勘違い。

Pocket

 

今さらながら、来年のピアノ発表会で弾く曲について、身の丈に合わない難しい曲を二曲も選んでしまったことに、若干の後悔を抱き始めたわたし——。

もうすでに譜読みは終えたのだが、これはいわばスタート地点に立っただけのことで、ゴールというのがどこにあるのか、スコープを覗いてもまったく見えないのである。

 

そして何よりも、明らかに衰えを感じているのが「譜読みの遅さ」と「指の感覚の鈍さ」だった。

これこそが老化現象というやつなのか、その昔・・小学校の頃など、今と同様に週に一度のピアノレッスンを受けていたが、普段からちゃんと練習をしないわたしは、最悪の場合などレッスンの10分前に先生のお宅を訪れ、音を出さないように鍵盤に触れながら必死にその日の曲をおさらいした。

 

そんなふざけた練習方法&練習時間にもかかわらず、一発でマルをもらった過去の栄光が頭から離れず、長期間のブランクを経てピアノを再開した今も、どこか調子に乗っていたのかもしれない。

とはいえ、そんなブランクを考慮したとしても、あまりにひどい譜読み能力の劣化とミスタッチの多さには、さすがにショックを隠せないのである。

 

中でも「音の幅が広い和音」を弾くとき、自分の感覚としては間違いなくその音の上に指を置いているつもりが、見事に隣の鍵盤だったり隣接する鍵盤の中間だったりと、まさかのミスタッチを引き起こす確率がものすごく高いのだ。

「だったら、ちゃんと鍵盤を見て弾けばいいじゃないか」と思う者もいるだろう。そしてその通り、目で見ながら鍵盤へ指を乗せれば、当たり前だが間違えることはない。

だが通常は楽譜を見ながら弾くため、あえて鍵盤を見ることはない。無論、暗譜してしまえば鍵盤を見ながら弾くこともあるが、今の時点では楽譜の指示通りに弾くことが最優先のため・・というか、鍵盤など見ずともどこにどの音があるのかくらい、ピアノを続けていれば自然と身に就くものなのだ。

 

それなのに、今のわたしには「数ミリの勘違い」が常に起きている。しかも、何度やっても同じミスを繰り返すわけで、これはもう「偶然」とか「たまたま」の域ではない。

片手ずつ音を確かめながら弾いたり、両手で非常にゆっくりな速度で弾いたり、ミスをする箇所だけ暗譜をしたり——。様々な練習方法を試みた結果・・なんとも悔しいことに、ミスなく弾けるようになったではないか。

(昔はこんなことしなくても弾けたのに・・)

今と昔を比べたところで、得るものなどなにもない。そこにはただ、輝かしい過去の栄光と落ちぶれた現在の空しい姿しか映らないのだから——。

 

ちなみに、自己分析した結果、譜読みが遅かったりミスタッチが多かったりする一番の原因は、「先を急ぎ過ぎているから」だと結論づけた。

「いやいや、なにを今さら」と突っ込みたくもなるが、難曲を前に気持ちが動揺しているわたしは、とにかく少しでも早く曲をまとめたい・・と常に焦っていた。その結果、ちょっとしたミスや乱れをスルーして、とにかく最後まで弾き切ることに注力してしまったのだ。

 

この時点で、「ミスを確実に解消してから進む」という選択肢を選んでいれば、もっと違う結果になっただろう。だがこれこそがわたしの悪い癖であり、だからこそ全てが中途半端になる原因なのだ。

とりあえず、全体を見ることで安心したい——そんな”逃げの気持ち”を優先させたことで、振り返れば何一つ完成していない状態で今を迎えてしまったではないか。

 

ピアノに限らず、仕事でもスポーツでもなんでもそうだが、ミスをスルーした先に成功は待っていない。むしろ、小さなミスを見逃したことで大きな失敗を招く可能性はあるが、一歩ずつ着実に進むことの重要というのは、どんな場面や行動にも共通するものだろう。

(出来ないことを、なんとなく「出来た風」にする悪い癖を今すぐ改めよう・・)

 

 

ピアノ発表会は来年の5月4日——あと7カ月あるとはいえ、自身の性格改善も踏まえると、とてもじゃないが時間が足りない。

それでも、インチキや誤魔化しで塗り固めたそれっぽい曲ではなく、完成度は低くても胸を張って披露できる状態に仕上げなければならない。なぜなら、その演奏こそが「わたし」という人間を表す唯一の手段なのだから。

 

Pocket