あのとき私が、通りを横切らなかったならば

Pocket

 

ピアノのレッスンを終えたわたしは、歩道へ出ると少し離れたところにある信号のほうを見た。

車道の信号は赤、そして歩行者の信号は青——。ここから信号までダッシュして15秒、そのまま渡り切れば最短20秒で向こう岸へとたどり着ける。しかし、青信号のライフゲージが残り「1」しか残っていない・・ということは、全力ダッシュをかましたとしても、運が悪ければ途中で赤になる。しかもここは大通りゆえに、横断歩道へ飛び出す前に青信号が点滅を始めたら、スタートダッシュを狙うトラックの運転手からクラクションを鳴らされかねない。

(うーん、あまりよろしくないな・・)

 

じつは今日、レッスンの途中から固く心に決めていたことがある。それは、スパイスカレーKERAKUでカレーを3種類食べること」だった。

目黒でおすすめの飲食店・・といったら、いの一番にKERAKUの名前が挙がるほど、カレー好きのわたしにとっては隅に置けない店。しかも、”路地裏の地下”という見つけにくい場所に位置するのも、隠れた名店っぽくて気に入っているのだ。

——このような事情から、脳内がカレーで埋まっているわたしは、通りの向こうにあるKERAKUを訪れるべく、信号の様子を伺っていた・・というのがここまでの流れである。

 

とはいえ、この後に急ぎの用事があるわけでもないので、信号が変わるのを少し待てばいいだけのこと。なんせ、ここでどれほど足掻いたところで、たかだか1〜2分の時間短縮しか得られない。加えて、真夏の炎天下でを移動するとなれば、汗をかかないようにゆっくり歩くのが常識・・ということくらい、子供でも分かるわけで。

(まぁ、ゆっくり行くか・・)

 

そう思いながらふと前を見ると、目の前には赤信号で停車中の車が等間隔で並んでいた。しかも、歩行者用の信号は未だ青であるため、この車たちが動き始めるまでにあと十秒・・いや、二十秒くらいはあるだろう。

(ということは、この車たちを縫って向こう岸へたどり着けばいいんじゃないか?)

良い子は決して真似をしてはダメ。だが、もはや人生に期待も望みも持てない中年独身女は、「車にはねられてもいいや」という投げやりな気持ちが湧き出た結果、危険を承知で一歩を踏み出したのである。

 

普段から交通量の多い道なので、なかなか「車を縫って横断する」という機会には恵まれない。むしろ、ピアノに通い始めてから初の試みである上に、カレーを食べたいと思わなければ、そもそもこんな危険な行為を思いつくはずもない。さらに、車道の信号が赤だったことも相まっての、「偶然」が重なったことによる選択といえるだろう。

とにかく、道路交通法におけるルール違反を犯したわたしは、そそくさと渡りきるとKERAKU目指して歩き出した——その瞬間、

「URABEさん!」

どこからともなく女性の声が聞こえてきた。辺りをキョロキョロすると、そこには日傘を差した友人の姿が。

 

かなり久しぶりに会った我々は、世間話ついでに互いの近況報告をしあったところ、なんと・・彼女がとんでもない危機的状況に陥っていることが発覚したのだ。

これは冗談抜きで、すぐさま手を打たなければ取り返しのつかないことになる・・と踏んだわたしは、超多忙だが超優秀な弁護士の友人へ、ダメ元でLINEを送ってみた。「いま、話せる?」と——。

 

すると、これまた奇跡的にも即座に電話がかかってきたのだ。

平日のこの時間帯、彼がすぐさま電話をくれることなどありえない。裁判や会議、打ち合わせ、書面作成などなど、どうしたらその莫大な量の案件をさばけるのだろうか・・と眉をひそめるくらい、人智を超えた仕事量をこなしている彼が、どんな用件かも告げずに「今話せる?」という、安易な一言に応えてくれることなどあり得ないのだ。

・・とにかく、ありがたい奇跡に感謝しつつも、日傘の友人が置かれている状況を説明し、できれば代理人として受任してもらいたい旨を伝えたところ——彼は、快く申し出を受け入れてくれた。

 

今日、わたしのピアノレッスンがなかったならば、

そして、KERAKUのカレーを食べたいと思わなかったならば、

しかも、歩行者の信号が変わりそうだったので道路を横切ろうとしなかったならば、

さらに、たまたま通りかかった日傘の友人が、わたしを見つけていなかったならば、

おまけに、超多忙な弁護士の友人から即座に電話がなかったならば、

 

——友人の会社は、乗っ取られていただろう。

 

 

これだけの偶然が繋がった結果、大ピンチを寸でのところで食い止めることができた。いや、正確にはまだ何も止められてはいないが、ここまで奇跡が集結したにもかかわらず、結果が上手くいかないはずがない。

 

それにしても、あの通りを横断したことなど過去に一度もないわたしが、今日に限ってなぜか横切ろうと思ったことが、自分でも不思議でならない。

挙句の果てに、待望のカレー店・KERAKUは閉まっていたのだから——。

 

Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です