(あと5分か・・微妙だ)
バス停に到着したわたしは、「さっき、信号待ちをしている間に行ってしまったあのバス、走れば間に合ったかもしれないな」と思いながら、次のバスまで5分・・という、なんとも微妙な待ち時間について考えた。
あと2分で来るならば、即決でその場にとどまることを選んだだろう。だが、あと5分待たなければならないとなると、どことなく決断できないから不思議である。しかも、バスによる移動距離が長ければ、それはもう否応なしに待機するしかないのだが、バス停2つ分しか乗らないわけで、それだけのために無駄に5分を過ごさなければならないということを、どうも素直に受け入れられないのだ。
かといって次のバス停まで歩くのも怠い。如何せん運動嫌いなわたしは、ちょっとの距離でも歩くことを避けて生きてきた。無論、走るなどもってのほかである。そんな罰ゲームみたいなことをするくらいなら、たった数分の距離でもタクシーを拾うに決まっている。
おまけに、仮にバス停一つ分歩いたならば、乗車した瞬間に「次降ります」ボタンを押すこととなり、それこそ運転手や高齢の乗客に笑われかねない。そんな恥ずかしい思いをするくらいならば、バス停二つ分歩くほうがいいのでは——。
繰り返しになるが、わたしは歩くことが嫌いだ。かといって、税金やら積立共済やら外貨建て保険やら、目玉が飛び出るほどの引き落とし詐欺に遭ったばかりなので、とてもじゃないがタクシーに乗る勇気も出ない。
ならばあと5分待ってバスに乗ればいいのでは・・いや、惚けた5分ほど無駄な時間はない。だったら少し歩いて、コンビニでコーヒーでも買ったほうがよっぽど充実するのではなかろうか。でも歩くのは——。
時間にしておよそ3秒、脳みそをフル回転させて検討した結果、わたしは「歩くこと」を選んだ。もしも次のバス停でタイミングよくバスが来たならば、たった一区間とはいえ乗ってしまうのも手である。その時の気分次第で、未来を決めればいいじゃないか——。
こうして、嫌々ながらもトボトボと歩き始めたわたしは、とある疑念というか違和感を覚えた。
(この調子でノロノロ歩いていたら、あっという間に5分など過ぎてしまう。その間に刻々とバスは近づいてきて、次のバス停にたどり着く前にわたしは追い越されるだろう。そんなバカげた話、あるだろうか!?)
次の停留所でバスを待ち受けるならばまだしも、バス停とバス停の間で抜かれたのでは、怒り・・というか絶望のやり場に困る。「こんなことなら、無駄に5分間待てばよかった!」「クソッ、ノロノロ歩くんじゃなかった!」そんな後悔は断じて御免である——あ、そうか。
うなだれて地面を見ていたわたしは、瞬間的に顔を上げた。そして、ものすごいスピードで歩き出した。
そもそも過去を振り返るなど愚の骨頂。加えて、明るい未来を築くも潰すも己の選択に委ねられている。ならば、今できるベストを尽くすしかない——そんなわたしの”今できるベスト”は、「スタスタ歩く」ということだった。
当たり前だが時間は有限であり、「(さっきの赤信号で)走れば間に合ったかも」とか「歩くのが嫌いなんだよな」とか、非建設的な戯言に粘着している暇はない。とにかく、5分後に来るバスよりも早く次のバス停にたどり着かなければ、「歩く」と決めたわたしの意志を正当化できない・・それだけは避けなければ。よし、せっせと歩こう!!
人間というのは至極単純な生き物である。己の決断を正当化するためだけに、大して意味のない努力ですら惜しまないのだから。
そしてわたしは、とにかくバスに抜かれないことだけを念頭に置いて、一心不乱に歩き続けた。何人もの歩行者を追い抜き、正面から突撃してくる自転車をはねのけて、ただひたすら歩き続けた。その結果——あれから8分が経過したが未だバスに抜かれることなく、次のバス停までたどり着いてしまったのだ。
しかも、バス停にはバス待ちの乗客の列ができており、間違いなくわたしはバスよりも先に次のバス停へ到着したのである。
(やった!!バスに勝ったぞ)
こうなったらもう自宅まで歩くしかない。たった一区間だけバスに乗るなど、210円をドブに捨てるようなもの。だったらそのカネで、セブンイレブンのコーヒーを買うほうが遥かに価値のある使い道といえる。
あぁ、なんだかえらく気分がいい。バスを逃して正解だったな——。
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以上が、目の前でバスを逃した敗者による、悔し紛れの選択が正しかったか否か・・の顛末である。
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