嫌なこと——ネガティブな出来事があったとき、でもそれがすぐには解決できないときに、わたしはトイレやキッチンそしてバスルームをきれいにする習慣がある。しかも、ただ単にきれいにするのではなく、ハウスクリーニング業者ばりにピカピカに仕上げるのだ。
気持ちが落ち込んでいるときは、何をやっても上の空で集中力に欠けるもの。かといって、動画を見るとか音楽を聴くといった受け身の娯楽は、なおさら負のスパイラルに巻き込まれる恐れがあるので避けたいところ。
(よく「この曲を聞くとあの頃を思い出す・・」というノスタルジックな発言を耳にするが、まさにこのセリフを生み出す原因となる行為なので、十分に気をつけなければならない)
そして、注意力散漫な状態で仕事をしようが習い事に手を出そうが、あまりいい時間は過ごせないしいい結果にも繋がらないため、こういった行為も自重するべき。
これらの見解を元に候補を絞った結果、ネガティブな気分を吹き飛ばす原動力となるのは、"身体を動かすこと"という答えにたどり着くのだ。
身体を動かして汗をかくと、不思議と嫌なことも吹っ飛んでしまう・・というのは事実で、しばらく経つと再び気持ちが沈むのは仕方がないにせよ、少しの間だけでも爽やかな気分でいられるのだから素晴らしい。
だが、いつでもすぐに身体を動かせる状況にあるとは限らないため、そんなときは視点を変えて「無意識に没頭できて、かつ、意味のある行為」に勤しむことで、身体を動かしたときと同程度の心のケアが可能・・とわたしは考えている。
そしてそれこそが、"水回りの徹底清掃"なのだ。
わが家にはプロ御用達の各種洗剤が取り揃えられいるため、水回りに立つだけですぐにクリーニングを開始できる。そのおかげで、あれこれ余計なことを考える必要もなく、ただひたすら汚れと向き合い排除していくだけの作業を、延々と続けることができるのだ。
それにしても水回りの清掃というのは不思議なもので、何も考えずに黙々とクリーニングを遂行すると、キッチンやトイレが明らかにきれいになっていくから気持ちがいい。なんせ、汚れというのは放置すれば溜まる一方で、掃除をしない限りは不潔路線まっしぐら。かといって毎日ピカピカに磨くほどの甲斐性はないし、誰かがわが家を訪れる・・といったイベントがない限りは、水回りが劇的にきれいになることはないわけで。
ところが、嫌なことがあると強制的にこのミッションが発動されるため、本来ならば「嫌なこと」であっても、結果的に「嬉しいこと」へと変わるのだ——なんと便利な変換機能だ。
実際にシンクを磨いていると、様々な発見がある。家主が料理をしないので、わが家のシンクはさぞかしきれいだろう・・と思って排水口を覗いてみると、排水トラップに見事な黒カビが生えていたり、その椀型トラップを持ち上げようとすると、表面がヌルヌルで持ち上がらなかったりと、汚れが溜まるような使い方をしていないにもかかわらず、常時ちゃんと汚れているのだ。
たとえばトイレは、便座であれ便器であれ直に手で触れながら磨くことはない。要するに、トイレ用洗剤をペーパーで拭き取ったり、ブラシでこすったりと、何らかのアイテムを介して汚れを落とすことになる。だがキッチンは、排水口付近のパーツを取り外して清掃しなければならないため、素手で——嫌ならゴム手袋でもつければいいのだが——触らなければならない。そのため、ちょっとでもヌルッとしていればすぐに気づくのだ。
そしてわたしは、そのヌメヌメした敵と戦うべく、焦らず気負わず黙々と台所用洗剤を浴びせるのであった。
汚れというのは一瞬にしてきれいになるわけではない。たとえば、清掃面に凹凸があったり複数のパーツでできていたりすると、それぞれの箇所を最適なアイテムで磨く必要があり、頭を使うほどではないにせよ手間と時間がかかる。
そんなことを繰り返すうちに、これらの汚れが消えていくのと、自分の心にあるわだかまりが薄れていくのが、どことなくシンクロするのだ。
(・・もっとキレイにしよう)
気持ちが楽になるのならばもっともっと磨いてやろうと、まるで汚れにすがるかのようにクリーニングに没頭していく——これこそが、「水回り徹底清掃療法」の真骨頂である。
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水回りの清掃をする際は、汚れを"自身が抱くネガティブな感情"に置き換えてみると、俄然やる気が出るし磨きに力が入るもの。明鏡止水の精神である・・ゴシゴシ。
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