正解のない愚問

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港区役所で年金相談員の業務に携わっていた頃、社労士であるわたしを訪ねて来る者の多くは、精神疾患を抱える人々だった。当然ながら港区に住民登録している区民からの相談がメインだが、なかには四国からわざわざ足を運んでくれる人もいるなど、障害年金について気軽に相談できる場所の少なさを目の当たりにする、貴重な経験となった。

そして8年間の相談員キャリアを通じて学んだことは、「自分を基準にして話を聞いてはいけない」ということだった。

相手の話に耳を傾けるということは、相手の立場や目線に合わせて話を聞くことだ・・と思う人がほとんどだろうが、わたしは違う。相手に合わせる意識は大切だが、その基準が「自分から見た相手」である以上、いつまでたっても相手の視座を共有することはできない。

——だって、少なくとも他人がわたしを理解できるとは思えないわけで、だったらわたしも他人の心理や本音に触れられるとは思えない・・というか、そんな高慢な勘違いこそが齟齬やすれ違いを生むのだから。

 

という考えを持つわたしは、ただただ聞こえてくる言葉に耳を傾けていた。無意味で違和感しかない言葉——ときには嘘や誤魔化しを含む不思議なストーリーを、わたしの主観や経験を一切排除して正面からストレートに受け入れた。

そして、一通り話を聞き終えてからそれらの言葉を組み合わせるも、一貫性のない奇奇怪怪な物語が出来上がるだけで、それを根拠に話を進めるのはあまりに危険すぎる・・だからこそ得心が行ったのだ——あぁ、いつまで経っても交わることはないんだ。

 

とはいえ、精神的に病んでいるヒトを例に挙げるのは極端ではあるが、身近な人物——たとえば友人や恋人であっても同じだと思っている。

他人の思考や本音に触れられる・・などと信じているならば、それは甚だしい勘違いである。自分から見た相手は、あくまで"自分が作り上げた相手像"であり、相手にとってそれがイコールになるとは到底思えないからだ。

それゆえ、わたしは自分を理解してもらおうとは思わない。理由は言うまでもなく「無理だから」だ。他人から見たわたしがどう写っているのかは分からないが、それでもそれは「わたし」ではないし、そこを一致させる必要もないわけで。

 

加えて、わたしの意見や主張を理解できない相手に対して、丁寧に説明を重ねて首を縦に振ってもらう必要はない・・と思っている。これはすなわち、相手が納得できる"テイのいい理由を与える儀式"でしかなく、言い方は悪いが不毛だからだ。

そもそも、「わたしはこう思う」という主張に対して「なんで?」という返しはナンセンス。本当に理解できないならば聞き返す意味もあるが、こういう場合は往々にして"自分と異なる意見だから、納得できないから"聞き返すわけで、真っ向からぶつかる勢いを許容できないための発言。

 

ではなぜ、いつしか「・・・わかった」と受け入れるのかというと、もはや現実に抗(あらが)えなくなるからだ。これは決して「理解した」とか「納得した」わけではない。ただ単に、流れゆく時間の中で一人置いてけぼりにされた事実に気づき、否が応でも動かなければならない窮地に立たされたたからこそ、「わかった」という敗北宣言を口にするわけで——。

ならば相手を説得することよりも、いち早く自分の意見や思いを伝えることが重要だろう。なぜなら、自分と相反する意見や思いを受け入れるには、ある程度の時間が相手には必要だからだ。その点からも、丁寧な説明よりも優先するべきことなのではないか・・と、わたしは思うのだ。

 

自分と他人の思考あるいは感覚が一致した瞬間、ちょっとした歓喜や心地良さを感じるもの。だがそれは、自分の目の前にある道ではなく、自分と相手の間にある"共通の道"を発見したことでフィットする感覚だと、わたしは分析している。

もしくは、互いに「同じだ」と思いながらも実際はちょっと違う・・という、幸せな勘違いかもしれない。いずれにせよ、自分が信じて貫いてきた"ソレ"とは微妙に異なる・・というのがわたしの考えなのだ。

 

 

どんなことでもすべてを正直に伝えることこそが誠意——という友人と、相手との関係性を維持するためには、伝える内容の取捨選択は必須でありそれこそが誠意——というわたしと、果たしてどちらが正しいのだろうか。

いや——、相手が違えばその答えも違ってくるわけで、永遠に正解のない愚問なのかもしれない。

 

Illustrated by 希鳳

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