わたしの生き甲斐は「食べること」である。なんせ、これほどまでに物理的な欲の満たし方は他にないからだ。睡眠欲というのも、実際に眠ることで満たされるので食欲と似た要素ではあるが、感覚的なことではなく物体を体内に取り込むことで満足できる食欲は、真の意味で"満たされる"のである。
無論、満腹中枢が刺激されることで食欲はおさまるわけで、そういう意味では物理的な量の話ではない・・というのが科学的な見解。それでも、咀嚼と嚥下を繰り返すことで腹は膨らみ体重は増えるのだから、視覚的にも体感的にも、そして数字的にも納得できるのである。要するに「やったつもり」とか「そんな気がする」とかいう曖昧な精神論ではなく、確実に満たす・・つまり、空っぽの胃袋を食べ物で物理的に満たすことができるのは、欲の中でも食べることだけなのだ。
そんな唯一無二の楽しみである「食べること」は、その第一歩として口の中へ食べ物を入れることから始まる。いや、厳密にはその手前から・・食べ物を目で見て、匂いを嗅いで、カトラリーで食材をつまむところから始まっているが、その辺りは端折って"口の中へ投入された瞬間"から、わたしの楽しみは満足へと変化を遂げる。
そして今日も、食欲の秋にちなんでブドウにミカン、柿、キウイフルーツ、パイナップル、焼き芋などなど、美味そうな食材たちを買い込んで帰宅したわたしは、さっそく甲斐路とシャインマスカットを引きちぎると口内へと放り込んだ。
甲斐路(かいじ)は別名"赤いマスカット"と呼ばれており、フレームトーケーとネオマスカットの掛け合わせ。名前からも想像できるとおり、山梨県の植原葡萄研究所で開発・育成された品種であり、果皮は薄い紅色、甘みは強いが程よい酸味と独特な旨味が特徴的。そのため、舌にまとわりつくような甘さがウリのシャインマスカットに比べると、食べ続けても"甘さもたれ"することのない甲斐路のほうが、個人的には好みといえる。
そんな甲斐路とシャインマスカットを交互に放り込んだわたしは、一口・・二口ほどアゴを動かしたところで咀嚼を止めた。
(・・・い、痛い)
——そう、数時間前に思いっきり噛んでしまった舌に、傷ができていたのだ。
舌の左側が沁みるので、とりあえず右側のみで咀嚼を続けてみたが、溢れ出る果汁による傷口への攻撃が止まない。そこで仕方なく、抱えていたシャインマスカットをテーブルに置くと、果汁の少ない「柿」を手に取った。
当然ながら、この状況でキウイとパイナップルとミカンは自殺行為であることくらい理解している。それでもわたしの胃袋は・・いや、脳みそは果物を求めているので、最後の選択肢となる柿に手を伸ばすしかなかったのだ。
(柿の果肉は硬いが、それでも果汁が少ない点からも、沁みることは避けられるだろう)
そして、「天下富舞」と呼ばれる岐阜県産の甘柿に齧りついた。
天下富舞(てんかふぶ)の特徴は、果実表面に浮かび上がる「条紋」と呼ばれる模様と、平均糖度20~23度を誇る驚異的な甘さである。一般的な柿と比べても圧倒的な糖度というだけでなく、ブドウやバナナといった糖度の高い果物よりも高い数値なわけで、これはとんでもない化け物っぷり。
そんな珍しい柿の欠片を口内の右側でシャクシャクと咀嚼したところ・・元来、歯ごたえのある柿の果肉を砕くには、それなりの咀嚼回数と明確なアゴの上下運動が必要なわけで、そのたびに舌の傷口に歯が触れるではないか。
(・・クッ、痛い。痛くて柿の美味さに集中できない)
涙目とまではいかないが、シャキシャキと快音が聞こえるほどの果肉は、嚥下するまでに時間がかかる。中途半端に飲み込めば、喉ごしに違和感があるし柿の甘みを感じることができない。やはりしっかりと咀嚼するしかないわけだ——。
こうして、比較的大きなサイズの天下富舞を一つ食べ終えると、わたしは一気に疲れてしまった。"食べる"という行為は喜びに満ちており、食べる前から食べている最中そして食べ終えてからも、幸せと満足を堪能できるという圧倒的な幸福度を享受できる行為のはず。
それなのに、食べている最中に苦痛を感じたり、しみじみと味わうことができなかったりすれば、満足どころか不満と落胆で顔面も曇ってしまうわけで、こんな状況を"生き甲斐"などとは、とてもじゃないが呼ぶことはできない。
——あぁ、舌にできた小さな傷のせいで、わたしは生き甲斐を失い苦行を強いられなければならないのか。
*
こうしてわたしは、満たされない週末を過ごすのであった。
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