誰かにだまされたり裏切られたとき、それに気づくのはいつだろう。
ある程度の時が進み、信頼関係を築き環境が整ったあたりだろうか。
これまで私が「だまされた」とか「うまく使われた」と感じたことは、ほぼない。
そもそもそうなる前に気がつくわけで。
あえてそこへ足を突っ込まなければ、だまされることもうまく使われることもない。
それでも、
相手にそのつもりがなくても、自分自身がそう感じることは往々にしてある。
*
直接人へ手を出すことの少ない私。
とはいえ、ないとは言わない。
たとえば伊勢丹クイーンズで、レジ待ちしていたところに割り込んできたオッサンを突き倒し、
「あ、手が滑った、ごめんなさい」
と丁寧に謝罪したとか。
電話で会話しながら、周囲を見ずに電車の列へ割り込んできたババァのスマホを取り上げて通話終了ボタンを押し、
「あ、間違えておしちゃった、ごめんなさい」
と丁寧に謝罪したとか。
そういうたぐいの直接的行動はある。
だが、裏切られた相手へは別の方法をとる。
憎きそいつの懐へ私は入り込む。
それは直接的な場合もあるし、間接的な場合もある。
そもそも、私自身が「だまされた」「裏切られた」と感じていることが条件なので、相手にその気があろうがなかろうが関係ない。
忠誠を誓いあなたの役に立つことを示しながら近づく。
だまされた、裏切られたと分かっていても迷わず真っ直ぐ進む。
私が気づいていることを決して悟られぬよう、誠実に礼をもって接する。
執念というエネルギーと共に。
*
だが今回にかぎっては、自分自身のミスを悔やみ反省している。
相手がうわてだった。
惚れ惚れするほど、かなりのうわてだったのだ。
全幅の信頼を寄せなかったため甚大な被害はない。
しかし一瞬でも一ミリでも、私を「使った」ことが許せない。
それに気付くのが遅かったことも情けない。
どちらかというと私より、私の友人が怒っているというのが正解か。
「俺はずっと憤ってるよ、オマエがなめられて」
そう思ってくれる友人のためにも、復讐を誓う。
貫くことはただ一つ、謝罪させないこと。
謝ることで本人自らが安堵する。
ならば決して謝らせない。
ずっとずっと、罪の意識に苛まれながら生きてもらう。
そもそもだが、罪の意識すら感じられないような人間にだまされることは、まずありえない。
人の痛みを十二分に理解している、実質の伴った人物だからこそ、私は乗せられた。
己の腹を掻っ捌いて見せられては、さすがに乗るしかなかったのだ。
彼は私をだますつもりも、利用するつもりもなかっただろうし、今でもないだろう。
だが、
結果として「私」がそう感じていることが事実。
彼方に見えかけた未来はパンドラの箱だったようだ。
そんな私の恨みは深く重い。
*
新たな人格を検討している。
友人は、
「敵8:どちらでもない1:味方1 の割合でいこう」
という。
これはネットでの攻撃方法について。
間接的な人格を形成するにあたり、このくらいの割合で相手に絡んでいこうということだ。
ターゲットに対してほぼ否定的に接するが、たまに賛成、たまにどちらでもない姿勢をみせることで不自然さを均す。
極端な人格は見破られるので、
「こういう奴いるよねー」
という割とありがちな、それでいてかなり粘着質で絶妙にイラつかせる人格を形成する。
ーーもしこれで「私」だと気づいたらさすがの一言だが
*
飼い犬に手を噛まれる、どころの話ではない。
飼い犬にかみ殺される、いや、見るも無残に喰い千切られて死ぬ。
少し賢く、獰猛で厄介な犬に殺されるイメージだろう。
奴がどれだけ見誤っているのかわからない。
狂った脳の持ち主である私を全く理解できていない。
私はこれからも従順な飼い犬を演じ続ける。
そして謝罪だけは決してさせまい。
死ぬまで安堵などさせるものか。
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