今年初の蝉の声——その正体を暴こうとした私に下された天罰

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昨日の夕方、わたしは蝉の声を聞いた。今シーズン初の蝉の声だが、もしかすると蝉ではないのかもしれない・・と疑うくらいに弱々しい音だった。なんせ最初は、錆びついた歯車を子どもが無理やり回しているのだろう・・と思ったほど、ギシギシと脆(もろ)い金属が擦れ合うような音だったのだから。

蝉といえば、押しも押されれぬ"夏を象徴するアイテム"であり、蒸し暑い炎天下でミンミンと響くあの音は、体感温度をさらに上げる効果すらある。しかしなぜか、日本人にとって蝉の声は雑音とか不快な音には分類されない。それどころか、立派な夏の風物詩として存在感を示す蝉の声は、「あぁ、今年も夏が訪れたんだ」という、懐かしくも心躍る感情をもたらすのだから不思議である。

 

蝉は地上に現れてから7日ほどでこの世を去るといわれている。そこだけを聞くと「短命でかわいそうなセミ!」と、思わず同情しそうになるが、地上など危険ばかりで幸せかどうかなど分かったもんじゃない。

なんせ蝉は、土の中でぬくぬくと5~7年間過ごしてから、子孫を残すべく渋々地上に出てきてミンミン鳴くのだから。「あーぁ、できれば一生、土の中で安全快適に過ごしたいもんだぜ」と、思っているかいないかは分からないが、彼らにとって地上での7日間は、それほど幸せでも楽しみでもないのである。

なぜなら、散々鳴きわめいたあげくにメスに気に入られなかったオスなど、"悲惨"というしかないからだ。交尾することなく力尽きて、木の幹にしがみつく力すら失った蝉は、無残にもポトリと地面に落ちる。もはや、自力では立ち上がることも飛び立つこともできないむくろは、小さくジジジ・・とうめきながら、いつしか動かなくなるのだから——。

 

そんな、ある意味"刹那的な一生"を送る蝉の成虫が、今年もまた地中から這い上がってきたのである。しかも仲間はおらずたった一匹で。

ちなみに今朝、やはり壊れた歯車がギシギシと軋むような、あの蝉の声が聞こえてきた。ところが、断続的というか一時的に聞こえたかと思うとすぐに鳴き止んでしまうため、もしかするとあれは蝉ではないのかも——と、蝉であることを否定したくなるような、そう願いたくなるような気持ちがこみ上げてきたのだ。

(どうせ七日後には絶命するんだから、できれば近所迷惑になるくらい、騒々しく鳴きわめいてもらいたいじゃないか)

こんなことを思うわたしは、やはり根っからの日本人なのだろう。

 

——などと蝉のことを考えながらも、あの音が錆びた歯車である可能性を否定するためにも、わたしは思い切って家を出た。蝉の声だろうが歯車が軋む音だろうが、別にどちらでも構わない。だが、なんとなくでも気になることは、早めにハッキリさせたほうがいいわけで。

あの音が蝉ならば、まだ梅雨は明けていないが夏の始まりを認めよう。そしてあれが金属の摩擦音ならば、クレ5-56かCRC(防錆潤滑スプレー)を吹き付けてやろう。

いずれにせよわたしには、事実を確認しなければならない使命があるのだ。

 

そう意気込んで外へ出たはいいが、およそ蝉の声がする方向へ向かうも、わたしを警戒したのかアノ音は消えてしまった。そして音源と思われるエリアには、蝉がとまるであろう樹木がたくさん立っており、その中から一本を特定するのは至難の業。

(ここで一声鳴いてくれたら分かるのにな・・)

小雨が降っているせいか、普段は子どもであふれかえっているこの場所も閑散としている。こんな天気じゃ蝉も鳴かないか——。

と思った瞬間、わたしは何かを踏んだ。グシャッというよりパリッというような乾いた音がしたのだ。そしてそれは、間違いなく虫を踏んだ音だった。

 

この場合、間違いなくアノ蝉を踏んだに違いない。ここまで散々煽ってフラグを立てたのだから、蝉を踏んでいなければならない。そしてわたしが「たった7日の命を奪った、極悪非道なニンゲン」という悪役を演じるところまでが、一連のストーリーとなるはずである。

だがなぜか、足の裏に感じる虫らしき物体の感触が"死んでいない"のだ。死んでいないというか、まだ生きているというか——。

もしも蝉を踏んだのならば、しかもあの弱々しい音しか出せない蝉ならば、これほどの巨体に踏まれれば一溜まりもないだろう。それなのになぜ、足の裏を通じて漲(みなぎ)る生命力が伝わってくるのだろうか。こ、これはまさか・・・。

 

 

その先は各々の想像にお任せするが、左足をちょっと上げた瞬間に、何やら黒い物体がカサカサと逃げて行ったことだけは、念のため報告しておこう。

 

llustrated by おおとりのぞみ

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