(なぜ、この男は足を組んでいるのだろうか――)
足を組む身体的なメリットは何もない。骨盤が歪むことで腰痛が起きたり、股関節の動きが悪くなることで膝を傷めたりと、骨を痛めつけることはできても、体を労わることはできない。
長時間座り続けたことにより、尻が悲鳴をあげるのは当然のこと。そんなときに足を組めば、片方の尻に体重を乗せられるため、同じ姿勢による圧力に害された尻は救われる。
とはいえ、長時間座り続けるほうに問題がある。尻が限界を迎えたら立ち上がればいいだけのこと。それを拒んで足を組むことで逃げようとするから、骨盤に負担をかけることになるのだ。
そこまでしてなぜ、ヒトは足を組もうとするのか。まったく理解に苦しむ。
ちなみに、オンナが足を組むのには二つの理由がある。まず一つは、内転筋の弱さから両膝を閉じておくことができないため、足を組むことで股が開かないように抑えつけているのだ。
そしてもう一つは、己の脚を長く美しく見せるために足を組む。膝下が揃った状態でわずかに横へ流した脚は、妖艶で色香漂う魅力的なパーツと化す。だからこそスカートをはいたオンナは、こぞって足を組むのである。
そんな見え透いた罠にまんまとハマる男どもは、鼻の下を長くしながら阿婆擦れの御御足を舐めるように眺めるのだから、まったく馬鹿らしい。
ところが、今わたしの右側で足を組んでいるのは、妖艶な魔女でもなければ長身のイケメンでもない。むしろその対角に位置するであろう、足の短い小太りなオトコなのだ。
ましてや混みあった車内で、なぜこの短足小太りはわざわざ足を組んでいるのだろうか。足が短い分、靴底は下を向かずにわたしの膝へ向けられている。もしも電車が急ブレーキをかけたりしたら、こいつの薄汚い靴底がわたしの右膝に激突するではないか。
というか、幸か不幸か右膝を負傷しているので、それを利用して大袈裟に痛がって、治療費をせしめるという作戦もなくはない。だがその前に、こいつの靴底でわたしのズボンが汚れることが許せない。見るからに汚い古びたスニーカーは、ちょっとでも触れたら土埃が付着するに決まっている。しかも、こんなデリカシー皆無の顔をした短足小太りが、気高きわたしのおみあしに触れることなどあってはならない。
とはいえ、さっきからスマホでゲームに没頭しているこのオトコ、己の靴裏がわたしに接近しつつあることに気付いていない。
無論、実際に接触したならば、こいつの髪の毛をひっつかんでクリーニング代と慰謝料を強奪するつもりだが、そんな無駄な労力を使うことすらもったいない。そもそも、こいつはゲームに夢中でわたしがこいつの靴裏に気を取られているという事実が、どうにもこうにも癪に障る。
かといって「足、組むのやめてもらえますか?」などと忠告するのも、心の狭い意地悪ババァのようで躊躇してしまう。
かつて電車内で、気難しい顔をしたババァが隣りに座る人間の動きに過敏に反応し、つまらない小言を告げる場面を見たことがある。その時の印象は、「あーぁ、そんなくだらないこと口にするから、アンタ嫌われるんだよ」だった。
その気難しいババァが嫌われているかどうかは分からない。しかし傍から見ていると、「電車に乗りわせた僅かな時間なんだから、我慢しよろ!」としか思えなかった。
それをわたしが再現するわけにはいかない――。
そんな怒りと憎悪に悶々とするわたしの前で、奇跡は起こった。短足小太りの靴底が、消えたのだ。
思わず顔を上げたわたしは、右前に立つ一人の老紳士と、彼が両手で握りしめるブリーフケースに目が留まった。故意か無意識かは不明だが、ブリーフケースが短足小太りの膝に触れたのだ。それに驚いた隣人はバランスを崩し、思わず組んでいた足をほどいたのだ。
(か、神様なのか・・・?)
白髪にシルバーフレームの眼鏡が、気品あふれる威厳を放つ。着慣れたスーツはくたびれた様子もなく、ブリーフケースも年季が入っているが汚れてはいない。革靴もつま先まで擦れておらず、物に対する愛情が感じられる。
この老紳士は、無意味な圧を放つわけでもなく、そして一言も言葉を発することなく、短足小太りの汚い足を引っ込めさせたのだ。
――これこそが神のなせる業なのか。後光すら感じるその姿に、わたしは内心ひれ伏した。それと同時に、短足小太りへの殺意も自然と薄らいでいったのだ。
そしていつしか、車内には平穏がおとずれていた。
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