ーーざっくりと言うと、ある競技で世界の頂点に立った後輩が、国内のごく普通の選手に負けた
こんなことが起きるのだろうか?
起きる可能性は十分あった。
*
後輩が世界一になったとき、ライバルはいなかった。
正確にいうと、ライバルの存在など気づかないほどに、自分のことしか見えていなかった。
良くいえば純粋、厳しい言い方をすれば幼稚で未熟だった。
ミスももちろんあった。
しかしそれは自分自身のミスであり、機械的に直すことで解決できた。
緊張もしたはず。
しかしそれも自分自身の緊張であり、目の前のことで頭がいっぱいになれば、それすらも忘れていただろう。
そんなコンフォートゾーンに入りながら、彼女は世界一に輝いた。
あれから4年、後輩は精神的にも成長した。
そのおかげで周囲を見渡す余裕ができた。
日本代表の彼女は「自分の正しい見せ方」を習得し、アスリートとしてどうあるべきかを認識しはじめた
その結果、他人に足を引っ張られるようになった。
*
私は彼女に勝てなかった。
実際の勝ち負けではなく、本質的に勝てなかった。
常に彼女を意識し、競技歴の短い後輩に負けたくないと思っていた。
そんなことを常に思っていたわけではないが、いま思い返すとそれしか頭になかったように思う。
競技に集中したくても意識は勝手にライバルへ向く。
ーーダメだ、いまは競技に集中しなければ
そう強く自分に言い聞かせる。
不思議なことに、そう思えば思うほど「競技に集中すること」に集中し始める。
この2つは似ているが、「競技に集中すること」と「競技に集中することに集中すること」は、まるで違う。
集中すべきターゲットがズレている。
集中することに集中する、ということは、本来集中すべきことではないことに集中しようとしている。
思えば思うほど、念じれば念じるほど、意識はライバルへと向くだろう。
逃れられない負のスパイラルの濁流に飲みこまれていくのだ。
*
ではどうやって、私がその濁流から生還したのか。
それは「彼女へ近づくこと」だった。
物理的な意味も含め、彼女を知ること、もっと言うと彼女の中へ入り込むことだった。
一般的に使われる「アンコンシャス・バイアス」とは異なるが、自分の中で作り上げられたライバル像は、案外、事実とかけ離れている場合が多い。
ライバルのほうが強い、ライバルのほうが上手い、ライバルのほうが練習している、ライバルのほうがキャリアがある。
数え上げればきりがない「ライバル最強神話」。
しかしライバルと実際に会話をしてみると、思っていたほど怖くはなく、思っていた以上に人間らしかったりもする。
さらに交流を深めていくうちに、「思い描いていた絶対神」とは違う人物像に描き換えられていく。
なんだ、これがリアルかーー
そう思えたとき、得体の知れない恐ろしいライバルは消滅する。
もちろん、人物像を知るだけですべてが把握できるわけではない。
競技における動作や特徴など、ライバルが優れている点を研究することは必要。
対人競技ならば過去の試合映像をチェックすべきだろう。
だが、その人を知ることで明らかになることもある。
人は、見えないもの、知らないものを怖がる。
しかし知ることができれば対策が立てられる。
テクニカルな意味ではなくメンタルの意味で、知ることが重要だ。
*
そうは言うものの、ときには相手を知らないほうが幸せなこともある。
あるとき私が対戦した相手は、私よりも競技のキャリアが長く強敵に思えた。
殺るか殺やられるか、そういう気持ちでマットに立った。
開始から殺すつもりで試合をしたし、そのおかげで勝利した。
私は勝てたことにホッとした。
そろそろ着替えようと更衣室に向かう途中、会場の隅っこで肩を抱き合い泣いている親子がいた。
それは私の対戦相手だった。
まだ小さい娘が、母の肩を抱きしめながらワンワン泣いている。
母は娘に何度もゴメンねと謝っている。
私はなんてことをしたんだーー
とっさに、首にかけていたメダルを外しリュックへ放り込んだ。
勝負事に感情論は不要。
しかし相手も人間である以上、それぞれの生活があり、仕事があり、人生がある。
彼女はどんな思いでマットに立ったのだろうか。
思い返すと、娘の声援が聞こえていた気がする。
母が勝利する姿を楽しみに、張り切って応援していたはず。
私はそのことを知らなかったおかげで、心を鬼にして勝ちに徹した。
もし、そのことを知っていたらーー
相手を知ることで揺らぐ決意もあるかもしれない。
それでも勝たなければならない。
知ったうえで、勝たなければ。
*
得体の知れない恐ろしいライバルから逃げてはならない。
むしろ近づき、食いちぎらねば。
己の血となり肉となり、ライバルを養分に成長するのだ。
怖いものがあるのなら、なぜ怖いのかを探り、噛み砕き、消化しろ。
飽きるほどライバルを分析し尽くせ。
得体が知れたら、真っ向勝負。
Illustrated by 希鳳
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