YouTubeでたまたま流れてきた「声優のアフレコオーディション」を耳にしたわたしは、震えが止まらなかった。
ソファへ横になりBGM代わりに流したYouTubeからは、目を閉じて仮眠できるような穏やかな雰囲気は、微塵も感じられなかった。
(なんなんだ、このピリピリ感は・・・)
本来は、様々な声優が登場してざっくばらんなトークを繰り広げるチャンネルであり、司会進行は「タッチ」の上杉達也の声を担当する三ツ矢雄二氏のため、軽やかなハイトーンボイスで楽しいひと時を過ごせるのである。そう、普段ならば——。
「んー、声の高さを変えているだけで、同じ言葉を繰り返しているのよね」
「自分のやりたいことを出すんじゃなくて、キャラクターがしゃべっている意識でやらないと」
「全部、同じセリフに聞こえる」
審査員である三ツ矢氏の辛辣なコメントを聞いていると、声優でもないのに胸がズキズキと痛む。あぁ、絶対に声優のオーディションなんて受けるものか——。
しかも、その場で出された指示に対応できるかどうかも、声優の実力として重要な部分らしく、「2歳くらい若い声で」とか「もう少しお父さんらしさを出して」など、非常に微妙なディレクションが飛ぶわけだ。
(たしか、この"お父さん"の設定は42歳くらいだったはず。だから、お父さんらしさを強調すればもっと年上に聞こえてしまうかもしれない。ということは、どこをどう変えたらリクエストに応えられるのか・・・)
おまけに、オーディション参加者は全員が新人声優ということで、ニコリともしない巨匠・三ツ矢雄二を前に、誰もが震え上がる勢いである。
とはいえ、さすがは声優歴48年のベテラン・三ツ矢氏。指摘する内容がどれも的確で、素人のわたしでも「なるほど」と頷いてしまうほど。さらに、自分自身で見本をみせてくれるため、よくいる"口だけの老害"とはまるで違うのだ。
声優とは、声質やトーンを変えて七色の声が出せることが実力・・というわけではない。声を使って役を演じるわけで、言い換えれば「与えられたキャラクターの芝居をする」というのが、彼らの仕事なのだ。
だからこそ、単にセリフを読めばいいってもんじゃない。それならば、素人にだってできることだから——。
「芝居」といえば俳優という職業が思い浮かぶが、俳優と違って声優のシビアなところは、声一本ですべてが決まるところだろう。
たとえば俳優ならば、外見や性格、声、喋り方、身のこなし、ファッションなどなど、俳優を補完する要素がたくさんある。そしてそれらも踏まえて、一人の"俳優"の輪郭が出来上がるのだ。
ところが声優というのは、二次元の世界で誕生したキャラクターの「声」のみを担当するわけで、その声がキャラクターのイメージから外れていれば、残念な気持ちになったりファンではなくなったりすることも。
・・そのくらい、キャラを生かすも殺すも声優次第なのだ。
だからこそ人気声優と呼ばれる人たちの技術やセンス、そして芝居への理解度と再現性は、恐ろしく卓越しているといえる。
なんせ「はっ、最後くらい呪いの言葉を吐けよ」というセリフ一つで、観客の頬を濡らしてしまうのだから——。
そんなことを思いながら、ふとある人の言葉が脳裏をよぎった。
「読まれる記事というのは、"書きたい"と"読みたい"が交わる領域にあります」
わたしは性格的に、自分が書きたい記事しか書くことができない。そのせいで、自分よがりな視点というか、内輪ネタ寄りな記事になってしまい、他人からすれば「まったく面白くない記事」となる可能性がある。
とはいえ、わたし独自の視点が他人にとって「面白い」と感じることもあるだろうし、他人からしても共感できる内容であれば興味を持ってくれるだろうし、わたしと他人とが交わる領域を突くことができれば、書き手も読み手も幸せになれるわけだ。
——そんなヒントを、ある人から教えてもらったことがあった。
しかし、変わり者のわたしが興味を持つ分野に、まともな人間は興味を示さない、
・・そりゃそうだ。誰かの役に立つ内容でもなければ、読んで得するネタでもないわけで、あえて時間を割いてまで「読もう」と思うレアな人物は、多く見積もっても両手で数えるほどだろう。
そして、それでは先細りなのは言うまでもない。趣味で記事を書く分には一向に構わないが、カネをもらうために書く記事ならば、掲載されるメディアが求めるニーズやニュアンスにあったものでなければ価値はないのだから。
これが「有名人の書くコラム」ならば話は別だ。放っておいてもファンは読むし、「あの人がこんなことを!」という、人物像とのギャップだけでも十分なスパイスとなるわけで。
ところが、しがない無名のライターが書いた記事など完全に"内容勝負"であり、この辺りは声優業と似ている部分かもしれない。
(自分という視点をブラさずに、それでいて読者の興味と重なる領域・・・)
ライティングの技術も重要だが、やはり「着眼点」というのがわたしにとっての肝となる。とはいえ、他者に迎合するような文章は求められていないわけで、どうすれば読み手に刺さるものが書けるのか判断に迷う。
(まぁ、何事も経験を積むしかないだろうな)
当たり前のことだが、失敗を恐れずに自分らしく存在することで、自ずと道が開けるのかもしれない——そう信じたいものだ。
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