「小学生の作文みたいなタイトルだな」
わたしの記事を読んだ親友が、衝撃的な感想を述べた。
それを聞いたわたしは、ショックを受けた。
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ライター業は、依頼を受けたメディアの要望に沿って原稿を作成し、納品することで報酬を得る。
多くのウェブライターはSEO(Search Engine Optimization)を意識し、Googleなどの検索エンジンで上位検索されるように、必要なキーワードを適切に使用したり、重要なタグに必要なキーワードを入れ込んだりと、テクニカルなライティングができる。
だがわたしは、自慢じゃないがSEO対策に無頓着。そのため、納品したメディア側で誤字脱字チェックを含むタイトル修正など、必要に応じて対策が施されるのだ。
原稿はわたしの手元を離れた時点で、わたしの所有物ではなくなる。これは作品をつくって売るのと同じだから、当然のことである。
そのため、ウェブ公開された時点で初めて完成形の原稿とタイトルを目にするとあり、個人的には小さな楽しみでもあるわけだ。
色々なメディアに掲載してもらううちに、各メディア担当者の「性格」のようなものが見えてくる。
もちろん、誰一人として顔を見たことも会話をしたこともないが、原稿のいじり方やタイトルのつけ方で、およその人となりが見えるから面白い。
さらに、わたしが気に入ろうが気に入るまいが、担当者の個性溢れる「手入れ」に触れるたびに、見ず知らずの相手に親近感が湧くから不思議である。
ちなみに記事のタイトルというのは、「ジャケ買い」「パケ買い」と同じ性質といえる。中身を知る前に、まずは見た目のデザインで購入するアレだ。
新発売のドリンクなどで、魅力的なパッケージデザインだったりすると、とくに飲みたいと思わなくてもつい手が出てしまうことがある。この場合、ドリンクの味も美味ければリピート間違いなしだが、味がイマイチならば「見かけ倒しか」となるわけだ。
飲料品や食品に比べて記事の場合は少し異なるが、やはり「ヒキの強いタイトル」にはそそられる。
個人的には、明らかに思わせぶりなタイトルや、極端すぎる「嘘っぽいもの」は好きではない。その逆で、記事の論点を鋭く反映し、それでいて魅力的なタイトルが浮かんだとき、あるいはつけてもらったときには、パンケーキホイップ増し増しを注文するくらいに大きな幸せを感じる。
無論、メディアに納品した時点でわたし個人の作品ではなくなるため、自画自賛のタイトルが消え去ってもどうも思わない。
ときには、それ以上の素晴らしいタイトルを引っさげてリリースされることもあるわけで、こちらとしては緊張しつつも楽しみにしているわけだ。
その点、このブログは気が楽だ。わたし自身がつけることもあれば、友人がつけてくれることもあるタイトルは、奇妙であればあるほど「謎かけ」の要素が濃くなる。
タイトルだけで十分遊べるほど、ひねりの効いたケースもあり、ほとんどの読者は気付くことなくスルーしているだろうが、個人的には遊びを満喫できて大満足である。
そして最近つくづく思うのは、わたしの考えや感じることというのは、一般的には同意を得られないことが多いということだ。
インターネット上に散らばるコラムで、たくさんのいいねや驚くほどシェアされる記事というのは、得てして「読者の共感」により巨大化している。もしくは、そう思っていようがいまいが、発信者に同意することで己のステータスを保つ目的の場合もある。
そして何より、わたしはそういったコラムが反吐が出るほど嫌いである。
こんなことを言っているから、いつまでたっても水面下をうろつく小物のままなのだ。
そんなことは分かっている。――だが、これでいい。
わたしが綴る文字は、嘘偽りないわたしの言葉であり、わたしの脳みそであり心である。他人に理解してもらおうとか、共感してもらおうなどという卑しい気持ちは微塵もない。
むしろ、容易に「わかるぅ!」などと言ってもらいたくないわけで、ただただ暇つぶしの数分間、ちょっとだけ「面白いな」と思ってもらうのが目的だからだ。
「こないだ駅前のベンチに××君がいて、背後から近寄ってみたらブログ読んでたよ。これ、面白いんだよね、って言ってた」
たった一人の生身の人間が「面白い」と言ってくれることほど、わたしにとって価値のあることはない。
いま、このコラムを読んでくれているアナタのために、わたしはこれからも毎日、ほんのちょっとの「クスッ」を絞り出していこうと思う。
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