「能ある鷹は爪を隠す」というが、無表情極まりない塩対応のカピバラも、じつは相当賢いのではないか、と疑う出来事があった。
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動物というのは、人間ほど表情が豊かではない。愛犬や愛猫が、目を潤ませてこちらを見ていると、
「あぁ、この子は私の悲しみを感じ取っているんだわ!」
などと妄想に耽る飼い主は多いが、実際のところ、あちらさんはそんなこと微塵も感じ取っていないだろう。
とはいえ犬猫は、気持ちが通じ合えているという「勘違い」ができるだけ幸せ。
だがカピバラに至っては、どこを見ているのかもわからず、太くて立派な剛毛で覆われた顔は、いつ見ても同じ表情をしている。
ご飯を食べているときも、ぼーっとしているときも、人間の相手をしてくれているときも、さほど違いはない。無論、食事中の目には圧を感じるが、それは表情というより動作に現れているためそう感じるのだろう。
カピバラ舎には、「カピバラに噛まれないように注意!」という看板があるが、あれは野菜やリンゴなどの「食べ物」を手で与えるときに、一緒に噛まれてしまうケースを指しているのだと思う。
なぜならカピバラは、人間の指を食べ物だと思っていないため、指単体を食べようとはしないからだ。
とくに大人のカピバラなど、指のニオイを嗅ぐことはあっても、わざわざ口にいれようとはしない。
逆に子どものカピバラは、人間の指をハムハムと甘噛みするが、ちびっ子の咬合力などたかが知れており痛くない。
ちなみにカピバラは草食動物のため、歯が尖っていない。おととい、ネコに甘噛みされたときは飛び上がるほど痛かったが、それに比べるとむしろ気持ちいいくらいの圧力である。
よって、食べ物と一緒に指が口の中へ入ってしまうと、指だけを避けて咀嚼することができないため、やむを得ず噛んでしまうだけなのだ。
そのくらいカピバラは、賢いのである。
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たくさんのカピバラが群がる柵の隣りに、ポツンと一頭だけ隔離飼育されている個体がいた。
どこか怪我をしているのだろうか。それとも、仲間と相性が悪いのだろうか。さっきから金網をガジガジ齧っては、歯のメンテナンスをしている。
しばらくすると、干し草とドライフードが入ったトレーに向かって、ノッシノッシと歩いてきた。
すでにほとんど食べ尽くしているため、わずかに散らばる残飯処理を行うのだろうか。
それにしても、たとえばリンゴやトウモロコシのように、高さというか厚みのある食べ物ならば、地面に置かれても食べやすい。
しかし、薄っぺらい干し草や小粒のドライフードは、ただでさえ厚みがないにもかかわらず、少量となるとなおさら食べづらいだろう。
地面ではなく「トレーの中」という条件だとしても、状況はさほど変わらない。あぁ、わたしが手で集めて食べさせてあげたい――。
そんなことを考えながら眺めていると、その一匹狼のカピバラは、驚くべき行動に出た。
なんと、前足でトレーの縁を踏んづけると、餌ごとひっくり返そうとしたのだ。
(あぁ、こぼれる!もったいないからやめるんだ!)
冷や冷やしながら見守るわたし。するとカピバラは、おもむろに己の頭をトレーにぶつけて、ひっくり返るのを阻止したのだ。
(な、なんという自作自演!)
ところが次の瞬間、予想外の結果にわたしは思わず感嘆の声をあげた。
もしもこれがわざとならば、カピバラは相当賢い生き物といえる。いや、わざとじゃなくても、これほどの強運の持ち主であること自体が、選ばれし「優れた生き物」の証拠となるだろう。
なんと、踏んづけてひっくり返しそうになったトレーに頭突きをした結果、敷地の隅にある段差というか壁に、トレーの端っこが引っかかったのだ。
その結果、すべり台のようにトレーが傾いたことで、干し草とドライフードが片側に集約され、残りわずかな餌が食べやすくなったのだ。
まるで狙ってやったかのように、すました顔で残飯処理に勤しむカピバラ。
「食べにくければ、食べやすいようにするのは当たり前のことだろ?」
そう言いたげな表情で、トレーをキレイに平らげた。
――もしかすると、騙されているのは人間のほうかもしれない。
このひょうきんで愛らしい動物は、わざと無表情を装うことで、我々を楽しませてくれているのかもしれない。
彼らは「どうすれば人間が喜ぶのか」を熟知しており、それに乗せられたわたしは、まんまと閉園までその場を離れられなかったわけで、完全に弄ばれたことになる。
――なんということか。あぁ、恐るべしカピバラ。
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