都会と田舎の違いなのだろうか。それとも、個々の性質によるものなのだろうか。あるいは地理的要因なのか――。
とにかく驚いたのは、長野駅周辺を歩く人間は百パーセント、マスクを着用していたことだ。
都内といえども、未だに9割はマスクを着用している。政府がどんなに「屋外では季節を問わず、マスクの着用は原則不要です。」と周知したところで、この3年弱のマスク生活からは、そう簡単には逃れられないもの。
それが田舎ともなれば、日々の会話はこの期に及んで「今日の感染者数」に始まり、「コロナ怖いですねぇ」で終わるのだから埒が明かない。
ましてや、山に囲まれた長野市のような盆地は、物理的にも外部から遮断された地形のため、なおさら「習慣」という地獄から抜け出すには時間がかかるのだろう。
長野駅で待ち合わせた母と会った瞬間、開口一番に放たれた言葉は
「マスクしなさいよ」
だった。一瞬ギョッとしたが、母の顔を見るとニコニコ笑顔。悪気など毛頭ない様子である。
「マスクしてないのあなただけよ、早くマスクして」
少なくともここは屋外であり、マスクの着用は推奨すらされていないはず。それでも確かに、行き交う人々は全員マスクをしっかりと着けていた。
かといって、素顔のわたしを白い目で見る人もいない。マスク警察なるものも確認できない。
そこでわたしは、「屋外ではマスクしなくていいんだよ」と母に説明すると、眉をひそめて不快感をあらわにしながら、
「みんながマスクしてるんだから、しなきゃダメなの!」
と強い口調で言いきられた。
これには驚きというより、不安が先行した。
(みんながそうしているんだから、あなたも従わなきゃだめ?・・恐怖政治かなにかか?)
あげくの果てには、
「恥ずかしいから早くマスクして!」
と泣きつかれる始末。
なんだこれは。まるで宗教みたいだ――。
マスクを着用すること自体に異議を唱えるつもりはない。コロナ云々ではなく、単純に「ノーメイクだから」とか「今日は寒いから」とか、理由は色々あるだろう。
しかしそれを他人に強要することには、少なからず抵抗がある。
マスク着用を義務づけているレストランへ入店する際は、当然、わたしもマスクを着ける。その店に向かって「政府がマスクをしなくてもいいと言っているのだから、着けなくてもいいはずだ!」などとごねるつもりはさらさらない。
さらに、自身の判断で(屋外での)マスク着用の要否を決めたならばまだしも、「みんながそうしているから」という理由は、さすがに受け入れがたい。
そして母は、続けてこう言った。
「みんなに合わせるという、協調性を持ちなさいよ」
果たしてここでいう「協調性」が、本来の意味なのかは分からない。
だが少なくとも、長野市ではわたし以外の人間はマスクをしていたし、そこへきて、マスクをしていないわたしの横を歩く母は「非常識で恥ずかしい」「協調性のない頑固な娘」というワードで頭がいっぱいになるのだろう。
そこでわたしは母にこう尋ねた。
「国は、屋外でのマスクは原則不要と言っている。なぜ間違ったことをしていないのに、わたしは怒られなければならないの?」
すると彼女はこう答えた。
「正しいかどうかじゃないの。みんながそうしているんだから、そうすることが正しいの」
もはや支離滅裂である。
とはいえ、彼女の言い分も分かる。長野という狭い田舎では、いつどこで誰が見ているかは分からない。
そして、わたしを見かけた誰かが、後に母を責めるのかもしれない。
「みんながマスクをしている中で、あなたの娘だけがマスクをしていなかった。どんな育て方をしたのか?」
バカバカしい話だが、田舎ならばあり得る。
こうなるともはや、マスクの自由は奪われたといえる。
国がなにをどう言おうが、母の中では「みんなと同じことをするのが正義」なのだから。
意外!
里香さんのとらわれない奔放な感じ(誉めてますよー(笑))は遺伝じゃないのですね!
真逆だね!父親は教諭、母親は半官半民の電力会社。
目立つことをするな、人の後ろをコソコソついていけ、と躾けられてきた。
躾と真逆の方向に🤣