コップを洗いに流し台へ向かったわたしは、目の前で起きている恐ろしい状況に言葉を失った。
ここはオフィスの給湯室。事件が起きるような場所ではない。なのに今、わたしが見ているものが事件の一部でなければ、いったい何だというのか。
言葉にするのもおぞましい光景が眼下に広がる。そう、なんと心臓の破片がシンクに飛び散らかっているのだ。
最初に見た時には、色のわるいタラコの残骸かな?と思った。だがよくよく見てみると、それはタラコなんかではない。なぜなら細かい粒が存在しないからだ。
(あぁ、これがタラコだったらどんなに安心することか)
気色悪い肉片に顔を近づけると、じっと観察をする。色はチャコールグレーというか薄い土色というか、血の通っていないくすんだ色合い。決して、生々しい赤やピンクではないが、逆にそれがリアリティを感じる。
なぜなら、死体の心臓はこんな感じだろうから。
見方を変えると肝硬変の肝臓にも見える。だがどちらかというと、やはり心臓の破片という様相を呈しており、明らかに事件性を感じるのだ。
変色した心臓がミンチされた状態で、なぜオフィスの流し台に散らばっているのだろうか。
とりあえず視覚的に気持ちが悪いのと、こんな現場を誰かに見られたら私が疑われるため、コップを洗うついでに肉片を排水口へと押し流した。
だが途中で、わたしはふと流す手を止めた。
(やはり確認しなくては)
もしもこれが殺人など、なんらかの事件にまつわるものであれば、証拠隠滅に加担するおそれがある。さらにここはオフィスであり、部外者が立ち入ることはない。
となれば、このシンクへ臓器の一部を流すことができる人間は限られてくる。
仲間を疑いたくはないが、仮にそうだとしてもきっと何らかの意図があってのこと。もしくは無理矢理やらされた可能性も含めて、ここは私が事情聴取をしなければならない。
この給湯室へ自由に出入りができて、かつ、怪しくない人物といえば――。
後輩の海田しかいない。海田は給湯室掃除の担当で、ペーパータオルや洗剤の補充なども行っている。奴なら怪しまれることなく、シンクに心臓の破片を流すことができるわけだ。
しかし海田は、不正を好まない上に行動も慎重なタイプ。仮に殺人を犯したとしても、こんな杜撰な処理をするだろうか。
いや、そもそも頭のいいアイツが、こんな分かりやすい方法で心臓を流すとは思えない。
(となると、海田ではない誰かか…)
顔と名前が一致しない新入社員がチラホラ浮かぶ。だがどれも怪しく見えてしまい、全員が容疑者となる。
そこでわたしは海田に相談することにした。もしもこの凄惨な現場を海田が見ていたならば、あいつが放置するはずがない。ということはやっぱり、あいつもまだ知らないに違いないからだ。
給湯室を出ると、ちょうど海田の姿を発見した。
「海田、ちょっといい?」
突然の呼び出しに面食らった表情の海田だが、給湯室の入り口へ来た時点で、単刀直入に今起きている惨事について説明した。すると海田は、
「心臓・・・ですか?」
と、訝しそうにわたしを見ながら聞き返した。
「うん、心臓の破片だよ。半分以上流しちゃったけど、まだ残ってるから見てみて」
そう言いながら海田を流し台へと連れて行く。そしてわずかにこびりつく心臓の残骸を指さすと、海田の表情が固まった。
ま、まさか――。
「先輩、これは心臓ではなく、ティラミスです」
真面目な顔で海田は言う。何を言っているのだ?これのどこがティラミスなんだ?どこをどう見ても、死後しばらく経った心臓のミンチじゃないか??
「じつはさっき、賞味期限切れのティラミスを捨てたんです。そのとき、容器に付いていたティラミスのカスを洗い流したんですけど、それがコレです」
ふざける様子もなく、堂々と状況を説明する海田。なるほど、そう言われてみるとティラミスのカスに見えなくもない。
「本当にそうなの?じゃあ海田が心臓の破片を流しに捨てたわけじゃないのね?」
念のためしつこく確認をする。後輩が犯罪者であれば、心を鬼にして警察に突き出さなければならないからだ。
だが海田の顔に嘘はない。笑顔で「ティラミスです」と告げると、その場を去って行った。
(あぁよかった。ティラミスの残骸と心臓は、似ているものなんだな)
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