鬱陶しいほど圧倒的なのが、米国という国

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午前5時過ぎ、わたしは夜と朝の狭間に立っていた。よくよく考えると日本にいてもこの時間帯は起きているのだが、アメリカの朝はあまりにはっきりしている。明暗のコントラストというか朝の力強さというか、迫りくる圧倒的なプレッシャーを目ではなく体全体で感じるから恐ろしい。

しかも、その様子というのが刻々と・・これがまたリアルに”刻々と”変化していくから不思議なのだ。同じ地球上にいるというのに、ここまで明確かつ着実に時間の変化を体感できるのは、この国を訪れるたびに思う謎の一つでもある。

 

たしかに、日本にいても日は昇るし月や星は移動する。それを直に見てきたし、それが事実であることは紛れもない。

だが、アメリカ(殊にネバダという地域)で体感する時間の変化は、速度の話ではなく圧倒的な推進力でできている。みるみるうちにコップから溢れ出る水のように、明らかに状態が変化していく様子を、夜明けの空を見上げながらひしひしと感じるのであった。

(時間って、本当に進んでいるんだな・・・)

 

科学(物理)的な話をすれば、空気が乾燥しているだとか東京より標高が高いからとか、それなりに納得できる理由があるのだろうが、とにかくあまりに三次元なのだ。

360℃広がる大きな空に、ティッシュペーパーをちぎったかのような白くてもろい雲が浮かんでおり、まれに煤で汚れた破片も混じっている。だが、いずれもなんというか・・触れたら分かるような立体感で出来ている。

よく、夏の象徴である入道雲は「立体的に見える」と言われるが、あれとはまた一味違う立体的な天体および気象現象が、ネバダの空にはある。なんせ、背後の空が透けて見えるほどの薄っぺらい綿雲でさえ、手前と奥がはっきり分かる3D感で、じっと見ていると美味そうにすら思えてくる。

とくに、夜空に浮かぶ雲の3D具合といったら圧巻の一言に尽きる。月や星の光度が高いせいか、その光を受けて夜の雲に影が生まれるのだ。舗装を終えたばかりのアスファルトのグレーに、同じ灰色ではあるが濃淡が異なるカラーリングでできた雲が、ゆっくりと着実に進んでいく——そんな神秘的かつ現実的な光景を眺めながら、絶対に静止することのないこの世の堅実さに、畏怖の念を抱かざるをえないのだ。

 

それにしても、ニンゲンというのは巨大なものに対して特別な感情を覚える生き物である。それは、生存本能としての危機感や自らをちっぽけなものと認識しているがゆえの畏敬なのだろうが、アメリカにおけるスケールのデカさは清々しいほど桁違いであり、そんな理性を超える認知的ショックこそが海外を訪れる意味であり価値なのであろう。

なんせ、見渡す限りの砂岩地形だけでも圧倒されるのに、突如現れる赤レンガを詰め込んだかのようなカラフルな地層を前にすると、「これが本当に、自然が生み出した作品なのか?」と眉をひそめてしまう。

青い空、白い雲、灰色と深緑が混じったような山頂、ベージュの山腹、赤レンガ色の渓谷、黄土色の砂岩地帯、モスグリーンの樹木、オフホワイトの岩石——。あれこれ詰め込み過ぎたランチプレートのような、なんとも無駄に豪華な配色具合には、ため息が漏れるというよりは苦笑いが出る。

 

同様に、だだっ広い夜空に広がる星や雲の破片を見ていると、日本では感じることのない明確な変化が襲ってくるわけで、前進すると同時に終焉へと向かっていることを、嫌でも思い知らされるのであった。

——そして今、煮えたぎるような熱量の朝日が顔を出した。

 

こうやって、否が応でもエネルギッシュな一日が始まるのだ。これこそがネバダの・・いや、アメリカの強さであり恐ろしさなのだろう。

とにもかくにも「待った!」がきかない強引な朝の到来に、漲る高揚感と若干の鬱陶しさを覚えながら、今日というストーリーへの一歩を踏み出すのであった。

(今日こそは、UFOと遭遇するぞ・・・)

 

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