石ころの汚れを落とす守銭奴職人

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わたしは昔から、他人に何かを教える・・という行為が嫌いだった。そのため、学校教諭の職に就いていた父親に対して、一度も「素晴らしい」とか「羨ましい」という感情を抱いたことはない。だが周囲の大人は、

「将来はお父さんを見習って学校の先生とか、そうじゃないなら公務員みたいな安定した職業に就けるといいよね」

というようなことを、まるで悪魔が呪文を唱えるように囁いているのが、本当に不思議で仕方がなかった。教師という仕事のどこか魅力的なんだろうか。公務員のような公僕になりたいだなんて、誰が思うんだろうか——。

 

もちろん、それらの職業を否定しているわけではない。仮に教師の教え方や人間性が最悪であっても、教師という立場の人間がいるからこそ学校教育が成り立つのも事実。おまけに、”反面教師”という言葉が示すように、ネガティブな要素から学ぶことも多い・・いや、そちらのほうが将来役に立つのが人生というもの。

こういったことからも、他人に何かを教える職業が必要不可欠であることは否定の余地もないが、わたしがその職に興味を持つかどうかはまた別問題・・というだけで。

 

同様に「公務員が素晴らしい」という思考も、幼いころから理解できなかった。とはいえ、公務員は幅が広いので一括りにはできないが、たとえば地方公共団体や官公庁で勤務することなど、とてもじゃないがわたしには無理である。

一方で、自衛隊や消防署といったいわばブルーカラー公務員ならば「非常にアリ!」だが、一般的なイメージの公務員というものに対して、魅力や憧れは微塵も感じなかった。それなのに、周囲はこぞって”公務員最強説”を吹聴するから、不思議を通り越して嫌悪感すら抱いていた。

こちらも教諭同様に、わたしが就くべき職ではない・・というだけで、存在自体を否定しているわけではない。むしろ、どう考えてもわたしには無理な職業で頑張っているヒトたちに、頭が上がらない思いでいっぱいなくらいで。

 

だからこそ、ピアノで進学しなかった・・という選択肢につながるのだ。わたしごときの実力では、なれてもせいぜい音楽の先生かピアノの先生どまり。いずれも生徒に音楽やピアノを教える仕事であり、ピアノは好きだが教えることが嫌いなので職業としては成立しない——。

そのくらい、他人に何かを「教える」という行為が、わたしにとっては苦手かつ嫌いなのである。

 

しかしながら、ややもすると「教えている」ときがある。たとえば、バッグから何かを落とした女性に対して「これ、落としましたよ」と教えてあげたり、券売機の使い方が分からない外国人に対して、購入方法を教えてあげたり——。

文字にすると同じ「教える」なのだが、どちらかというと当たり前の行為なわけで、伝える内容も当たり障りのないごく普通のこと・・そう、教えるというより”伝えている”だけなのだ。

 

そういえば友人から、

「教えるの得意だから、指導者になればいいじゃん」

というような提案をされたことがある。褒められるのは嬉しいが、指導者になる・・という選択肢はわたしにとって皆無。むしろ、逆に「教わること」は好きだし興味があるわけで、「指導される」という仕事があればそちらに就きたいくらい。

そしてこの場合の「教える」という行為も、相手が知らないことでわたしが知っていることを「伝えた」結果、相手は「いいことを教えてもらった」となっただけなので、イメージ的には”マイナスをゼロにした”という感じ。それ以上の状態に持っていくのが指導、すなわち教えることであり、それこそが職業・指導者たるもの——やっぱり、わたしには無理である。

 

それでも、本来ならばキラキラと輝く宝石が、母岩や泥などのせいで単なる鉱石として転がっているのを、気付いていながら見過ごすことはできない。これはきっと、貧乏性ゆえの「もったいない根性」も関係している。

同様に、道に現金が落ちているのを発見した際に、それをくすねるのか交番や敷地内の保管所へ届けるのかは別として、”見て見ぬふり”はできない。それは「他人に奪われるくらいなら、このわたしが手に入れてやる!」という守銭奴精神の賜物でもあるが、価値のあるものが落ちていて、それをスルーできるほどわたしは裕福でもドライな性格でもないわけで・・。

(いや、この場合は絶対にカネ欲しさだろう)

 

そして、単なる石ころかもしれない鉱石の汚れを落としてみたら、光り輝く宝石だったときの高揚感というか喜びは、それを手に入れたこと・・ではなく、その事実が確認できたことにある。結果的に宝石がわたしのものにならなくても、それはどうでもいい。あの汚い石ころが宝石だった・・という事実だけで、わたしは満たされるし嬉しい気持ちになれるからだ。

要するに、それほど物欲がない(正確には、カネがないから買いたくても買えない)分、真実にたどり着くことの快感のほうが、わたしにとっては大きな満足につながるのだ。そして、宝石の輝きを手に入れた「誰か」を見るのは断然気持ちがいい。そのヒト本来の姿、すなわち自由を手に入れた姿は、眺めているだけで幸せな気分になれるわけで——。

 

とはいえ、鉱石が宝石であることが発覚しても、これはあくまで「マイナスをゼロにする」だけで、その後の研磨やらカットやらは専門家に委ねるしかない。おまけに、値が付いた宝石にはもはや興味はないので、やはりどこか足りない”薄汚れた石ころ”が、わたしは好きなのかもしれない。

(とどのつまりは、カネのかからない安いオンナである)

 

サムネイル by 希鳳

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