他人の晩ごはん

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エアコンを使わずとも、窓を開けておくだけでちょうどいい温度を保てるこの季節。朝は鳥のさえずりで目を覚まし、昼は活気あふれる街の動きにパワーをもらい、夜は静寂とともに一日の終わりへ感謝を捧げる——。

都会で暮らしながらも、季節の変化を直に感じられるのがこの時期であり、おまけに電気代も節約できるという一石二鳥のシーズンなのだ。

 

そんな、自然が与えてくれる最高の環境を満喫していたわたしは、とある夕方の6時過ぎ、まさかの攻撃をくらった。

——いや、これはむしろ試練と呼ぶべきものかもしれない。なぜなら、わたしが「攻撃された」と感じている行為は、ごく普通の生活行為であり相手はまったく悪くないからだ。

 

その正体とは・・・夕飯の匂いである。

 

 

(これは、鮭のムニエルか)

部屋で一人静かにパソコンと向き合っていたところ、どこからともなく鮭とバターの濃厚な香りが漂ってきた。しかも、ここまで強い香りを放つのは、現在進行形で調理をしている最中なのだろう。

しばらくすれば匂いも落ち着くはず・・と、再びキーボードに指を乗せたわたしは、溢れんばかりの鮭のムニエルに耐えながら作業を続けた。だがなぜか、鮭とバターの香は消えるどころか延々と室内へ流れ込んでくるではないか。

 

「調理が終われば匂いも落ち着くはず」と読んでいたわたしだが、もしかすると鮭のムニエルは時間がかかる料理なのかもしれない——そう疑い始めたのは、美味そうな匂いが流れ込んできてから10分後のことだった。

そもそも自分自身で調理したことがないので、鮭のムニエルが完成するまでの調理工程や時間など想像もつかない。だが、明らかに分かる「バター」と「鮭」に火を通している匂いは鮭のムニエルであり、その事実が着々と我が家に忍び込んでくるのだが、逃げようにも逃げ場がない。

 

対する我が家を見回したところ、食べ物らしきものはホワイトチョコレートとメントスと漢方薬くらい。どう頑張っても、鮭のムニエルに対抗できるほどの味も匂いも発することはない品々に、わたしはがっくりと肩を落とした。

(あぁ、貧しいとはこういうことなのか)

夕飯といえば「温かい料理」が定番。鮭のムニエルほど手の込んだ料理でなくとも、温かいご飯があればそれだけで十分・・といえるほど、料理の温度というのは重要な要素となるわけだ。

それなのに我が家には、温かくなりそうな食べ物が存在しない。念のため業務用冷凍庫の中を覗くも、怪我をした際に使用するロックアイスが大量に転がっているだけで、口に入れられそうなものは何もない——。

 

・・とその時、まさかの追撃が放たれた。なんと、鮭のムニエル攻撃だけでは足りず、豚の生姜焼き攻撃で追い打ちをかけてきたではないか!!!

 

匂いの元が同じ部屋なのか否かは不明だが、全開になっている我が家のベランダから、静かに侵入してくる豚の生姜焼きの匂い——なぜ豚の生姜焼きだと分かるのか不思議なくらい、確実に豚肉と生姜ソースに火を通した匂いが漂ってくるのだ。

(鮭のムニエルと豚の生姜焼きならば、今の胃袋事情的には後者が食べたい。だが、芳醇なバターの香りも捨てがたい。つまり、どちらも食べたい・・)

冷静に仕事と向き合いたいわたしだが、この匂いによる攻撃はリアルに「目に見えない敵」である。音もなく忍び寄り、ニンゲンの心を揺さぶり貶める、魅惑の攻撃——。

 

加えて、わたしが危惧したのは「これらの匂いが衣服や布製品に付着するのではなかろうか」ということだった。自ら調理した末の結果ならばまだしも、一口も食べることなく匂いだけでおあずけをくらったあげく、油の痕跡だけ残されたのではたまったもんじゃない。

(仕方ない、閉めるか・・)

こうしてわたしは、止む無く窓を閉めたのである。

 

 

エアコンいらず・・言い換えれば「自然の恩恵を享受できる季節」というのは、窓を開放することで快適な温度を共有できる反面、「他人の晩ごはん」という、ある種余計な情報まで届けてくれる季節でもある。

 

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