ヌカカはなぜ逃げた

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(やはり何かがおかしい——)

己の前腕を見つめながら、わたしは唸った。

 

 

コンクリート砂漠に突如現れたオアシス・・とでも呼ぼうか、虎ノ門にある高層ビルの入り口に、人工的ではあるが緑の生い茂る休憩場所があり、そこでコーヒーブレイクをしていたところ、小さな黒い虫が飛んできた。

よく見ると、わたしが座っているベンチの周りにはたくさんの生き物が右往左往している。あの赤くて小さな点は・・タカラダニだ。人を刺すことはないとされているので人畜無害ではあるが、いかんせん「赤い虫」というのは気味が悪い。

他にも、アリやハチなど馴染みの虫たちがウロウロしており、土や草木の存在が生物にとっていかに重要であるかが見て取れる。

 

そんな中、蚊ではないが必死に羽ばたきながらわたしに近づいてくる虫がいた——ヌカカだ。

ヌカカ(糠蚊/ヌカのように細かくて小さい蚊のような虫・・というのが名前の由来)とは、一見「蚊」の仲間と思われがちだが、実際にはハエ目(双翅目)ヌカカ科(Ceratopogonidae)に属する、体長1 mm前後のとても小さな吸血性の昆虫。

体の色は灰褐色~黒褐色で、透明な翅を持っている。生息地は、湿地や田んぼ、川辺、草むらなど日陰や湿気のある場所で、春から秋にかけて公園やキャンプ場、畜舎などで見かける”衛生害虫”だ。

 

ヌカカは蚊と同様にメスだけが吸血するが、その理由は、産卵のために動物の血液を必要とするからである。ちなみに、蚊のように「刺す」のではなく「皮膚を噛み切って吸血する」ため、吸血箇所が赤く腫れやすい。また、一度に吸う血液量はわずかだが、アレルギー反応によるかゆみや腫れ、熱っぽさが強く出るのもヌカカの特徴。

そんなヌカカが、わたしに向かってフラフラと飛んできたかと思えば、左腕にとまったのだ——マズい、血を吸われる!!

 

厳密には”左前腕の甲側”にヌカカが着地したのだが、しばらく様子を観察するも吸血する素振りが見られない。いや、吸血したくでもできない・・というような感じにすら見える。そして「間違えた!」と言わんばかりに、なんの未練もなく飛び去っていったのだ。

(またか・・またもや吸血害虫がわたしの血をあきらめた)

 

なぜこのように驚くのかというと、過去にわたしは大量の蚊に刺されてアナフィラキシーショックを起こしたことがある。そのくらい、なぜかわたしだけが異常に蚊に刺される・・ということがしょっちゅう起きていた。

にもかかわらず、ここ最近はむしろ”わたしだけが避けられている”かのように、周りの者が全滅してもわたしだけは無傷ということが増えたのだ。その度に「わたしも刺されて痒い」というフリをするなど、蚊に刺されてもいないのに刺された演技で協調性を維持してきた。

そしてこの現象は、海を越えたアメリカでも同じだった。

 

タンクトップと短パンにビーチサンダル・・という、余すところなく肉体をさらけ出しているわたしの存在は、吸血性の虫にとって格好の獲物。にもかかわらず、友人はちゃんと刺されているのにわたしだけは無傷に終わったのだ。

その時は、「もしかすると、アメリカの蚊は日本人の血が好みではないのかもしれないな」などと思っていたのだが、こういうことがあまりに度重なるため、なぜわたしだけが虫に嫌われているのか不思議に思っていたのである。

無論、吸血されないにこしたことはないので、ラッキーといえばラッキー。だが、あれほどまでに蚊やブヨに狙われまくっていたわたしが、突如、ガン無視され始めたことには違和感を覚える——なぜだ?

 

この疑問に対する答えをひねり出すとすれば、「柔術の練習をすることで、道衣の摩擦により皮膚が丈夫になった」という感じだろうか。言い換えれば、「皮膚が硬化した」のではなかろうか。

自らの前腕に触れたとてそこまでの硬さではないが、どことなく手ごたえを感じる・・というか、皮膚の分厚さを感じる気はする。つまり、「吸血しようと着地したはいいが、刺そうにも噛もうにも皮膚がタフすぎて歯が立たない」ということだとしたら、なるほど合点が行く。

(鋼の皮膚を纏うオンナ——フンッ、悪くないな)

 

 

真偽のほどは不明だが、あれほど刺されまくっていたわたしがここまで無傷で終わるようになったのは、どう考えても”皮膚が硬化したか分厚くなったか”の二択しか、考えられないのである。

 

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