「前から聞こうと思ってたんだけど、パクチーのこと"美味しい"と思って食べてるの?」
パクチーなどの香草があまり好きではない友人が、そうおもむろに尋ねてきた。なぜなら、わたしが中国ラーメン店の揚州商人にて、"追いパクチー"をすることで熱帯雨林のようなラーメンを注文したことがあるからだ。
タイ料理やベトナム料理が好きなわたしは、必然的にパクチーを口にする機会も多い。そして、パクチーが載っていない料理であっても追加トッピングで注文するほど、「パクチーが好きなヒト」という印象を持たれるのに十分な振る舞いをしてきた。
だが、友人からの質問を受けて改めて考えてみたのだ。本当にわたしは、パクチーを美味しいと思って食べているのだろうか——と。
そもそもアレは"ほぼ草"である。サイズ的にも道端に生えている草と同等で、ややもすれば野菜界の中で最も草に近い・・いや、どれよりも「草」といえる個体だろう。ほかにも春菊や三つ葉、クレソンなど草寄りの野菜はあるが、日本を代表する草といえば、「ヨモギ」の存在を忘れてはならない。
なんせヨモギは、アイヌ文化では「この世で最初に生えた草」といわれているのだ。そのため、神の力たる霊力を持っているとされ、魔除けとしても重宝された。そんな壮大な歴史的背景を持つ"神の草"と比べると、パクチーのバックボーンはよく分からない。とはいえ、草としてのポテンシャル——言い換えれば「草としての正しいあり方」という観点からすると、そんな仰々しいものではなく雑草扱いされるもののほうが、草としては正統派となる。
そしてこれらの事情を考慮した結果、パクチーこそが「野菜界の草」の称号を名乗るのに相応しい草・・といえるわけだ。
ということで、完膚なきまでにディスられたパクチーではあるが、わざわざ"追いパクチー"をするほど気に入られているのは間違いない。少なくとも、ヨモギや春菊を追加トッピングすることはないので、その点からもパクチーのほうが上位。
だが残念なことに、その味については「美味い」と断言できる自信はない。
そもそも、草を食べて「これは美味い!!」となるだろうか。同じ青果物でも、採れたてのトマトやニンジンが美味いと感じたり、加熱したジャガイモやサツマイモが美味であったりするのと比べると、草であるパクチーは可食部の範囲も小さければ咀嚼の必要性もほとんどないため、美味いか不味いかを判断する土俵にすら上がっていない。
というか、パクチーの存在意義は「香草(ハーブ)」という部分にあるので、どちらかというと「不味い」に分類されるのは仕方のないこと。ツンとした香りが脂っこい食べ物に爽快感をもたらしたり、微かな苦味が全体的な味のバランスを整えたりと、料理を立体的に楽しむためのスパイスが、ハーブたるパクチーの役割りなのだから。
そうなると、単体で食べて美味いはずはない。ましてや、薬草としての一面もある(消化促進、抗酸化作用、デトックスとしてだけでなく、虫よけとしても使われている)ため、どう考えても美味いはずがないのだ。
(美味いか不味いかの二択ならば、残念ながら不味いに振るしかない・・)
そう結論付けたわたしは、友人からの質問に「美味いとは思ってないよ」と答えた。それを聞いた友人は大笑いしながら「じゃあなんであんなにパクチーを食べるの?」と、当然の問いを投げてきた。
(・・なぜだろう)
こればかりは、自分のことながら分からない。決して美味いとは思っていない・・むしろ、不味いと思いながらモグモグしているくらいなのに、なぜ毎回パクチーを頼むのだろうか——。
われわれ人間には、"怖いもの見たさ"という謎の習性がある。見なければいいものを、好奇心を抑えられずについ覗いてしまう・・というアレだ。そして、美味くもないパクチーをなぜか毎回大量に食べてしまうのも、きっとアレに似た感覚に違いない。
美味いものは一発で「美味い」と判定できるが、不味いもの・・しかも不味ければ不味いほど、「本当に不味かったどうか、念のためもう一度食べてみよう」となるから不思議。この法則により、決して美味いとは思っていないパクチーを、懲りずに何度も注文しているのが、このわたしなのである。
ちなみに、会話の終わりに友人は、
「でも、美味しくないって思ってることが知れて、安心した」
と呟いた。
——ならばなぜ、美味しくないものを好んで食べているのだろうか。自分自身でも明確な理由が見つからないまま、「ほぼ草」であるパクチーを貪るのであった。
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