本気の蹲踞(そんきょ)

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自分が歩く姿を直接見ることはできないので、果たしてわたしがどのように歩いているのかは分からないが、もっとも近似しているのは「力士」ではないかと思う。

わたしだって力士のように歩きたいわけではない。だがいま、精一杯の普通で歩こうとすると、どうしても力士になってしまうのだから仕方ない。

 

――そう、わたしは今日、極度の筋肉痛に見舞われているのだ。

 

 

昨日、人生初の本格的なスクワットというやつを体験した。30キロの重りを抱えたまま、M字開脚バリに沈みこんだかと思えば、すかさず立ち上がる。それを延々と繰り返す。

「うーん、まだまだいけるね」

挑発的な笑みを浮かべながら、スクワットのプロが言う。

「いえ、もうかなり限界です」

懇願するかのように、わたしは答える。

「よし、じゃあもう5キロ重いの持ってきて」

 

…この人の耳は聞こえているのだろうか?わたしは「限界だ」と言ったはず。いや、もしかするとこれこそが「筋トレ」というやつなのかもしれない。自分の限界のもう一つ上を行くことこそが、真の筋トレ――。

いやいや、そんなことはどうでもいい。わたしはマッチョになりたくてスクワットやローイングを習っているのではない。頸椎ヘルニアの予防策として、首や背中の筋肉を付けようとしているだけなのだ。願わくばこれ以上ゴツくならないでほしい。だが見た目を気にして頚椎に負担をかけるくらいならば、そこは涙を呑んで受け入れよう。

さらに上半身を支えるためには強靭な下半身が必要だ。そのためにも、深いスクワットによる「筋力と人間性の向上」を狙っているというわけだ。

 

人間性についてはまだ効果はみられないが、筋力についてはどうやら変化があったようだ。今朝トイレで便座に腰かけた瞬間、思わず漏れた悲鳴こそが動かぬ証拠。痛みに耐えながら用を足し、便座から立ち上がろうとするも、ハムストリングスがプルプル震えて自力での起立は困難。

トイレから出てふと鏡を見ると、痛くも痒くもないが白目に内出血が見られる。あわてて主治医に画像を送ると、

「結膜下出血だね。筋トレ、スポーツ、お風呂、サウナ、お酒など、代謝が上がることをした後に、赤くなって血管が切れて起こります」

と、冷静な返信をもらう。

 

(うむ。身に覚えのある原因が3つもある)

 

しかし、苦痛と同時に一つの期待が頭をよぎる。もしかしたら体重が減っているかもしれない――。リビングに戻ると早速、体重計に乗ってみる。

(・・・・・・・)

これはありえない。驚きよりも恐怖が襲ってくる。想定体重より4キロも重いではないか。

 

(そんなはずはない、これは絶対にありえない。そうか!床が斜めなのかもしれない。場所を変えて測り直してみよう。ん-、ここもダメ、ここもダメだ。どうやら我が家には水平な場所がないんだ。だったらこの際、外でも構わないから水平な場所を探そう)

こうしてわたしは、通報される覚悟で玄関の外へ出た。そこで体重計を置き、再び乗ってみる。

(ダメだ、ここも平らじゃないんだ!)

どうしたって信じられない。一日で4キロも体重が増えるはずはないのだから。この世がおかしくなったに違いない。でなければこんな逆奇跡、起きるはずがない。

 

涙をこらえながら室内に戻ると、約束の時間に遅刻しそうであることに気づき、痛みをこらえながら急いで身支度を整えた。

 

 

「あー、でも筋肉痛のときって体重増えるよ」

トレーニーの友人が言う。どうやら筋肉痛による疲労物質の蓄積が水分代謝を低下させる分、筋肉に水分が溜まるのだそう。ということは、この体重増加は筋肉痛によるものということでいいのか?

「まぁさすがに4キロは増えないけど」

や、やっぱり。今日までの暴飲暴食の成果が、体重増加という形で現れただけだろう。残念だが、現実から目を反らしてはいけない。

 

膝は曲げず、内腿同士が触れ合わないようにゆっくり歩くと、まるで力士の歩き方になる。下半身が絶賛筋肉痛のわたしは、痛みを最小限に抑えるべく不要な動作を省略した結果、力士となった。

そして今日こそは、堂々と優先席に座ることができる。少し大袈裟に足を引きずりながら、一目散に優先席へと滑り込む。いいんだ、二度と会うことのない乗客らにどう思われようが。座ることさえできれば、それでいい。

 

ホームから改札口へと向かう手段は、言うまでもなくエスカレーター。これ見よがしに階段を駆け下りるアスリート気取りのサラリーマンがいるが、いっそのこと足がもつれて転んでしまえばいい!…なんて、思ったり思わなかったり。

ゴタン!!

背後から何か硬くて大きな物が落ちた音がする。スーツケースでも滑らせたのかな?と思っていたところ、女性の悲鳴が聞こえた。振り返ると、男性が崩れ落ちるようにしてエスカレーターを転がりかけている。

(ま、まずい!)

わたしはエスカレーターの左側に立っていたが、倒れた男性は右側だ。さらにまずいことに、男性の前を歩いていた中年サラリーマンまでもが巻き添えを食い、二人とも滑落しかけている。

 

わたしは力士だ。そして昨日、スクワットで足の筋肉を増やした。ここで活躍せずして、一体どこで披露するというんだ――。

 

考えるより先に足が出た。わたしは即座にエスカレーターの右側に立つと、極度の筋肉痛の両足で踏ん張り、背中を上に向ける形で蹲踞(そんきょ)の姿勢をとった。

(さぁ来い!背中で受け止めてやる!)

気合十分に蹲踞の姿勢をキープするが、一向に落ちてこない。アレ?と振り返ると、わたしより後ろに立っていたエスカレーター利用客らが、落下しかけた二人の腕や体をつかんで止めたのだ。大事に至らなくてよかった――。

 

安堵の表情で前を向くと、わたしより前に並んでいた利用客らがこちらを見ている。落下しかけた二人の男ではなく、このわたしを見ている。

――そうか、わたしは前を向いたまま、全力で蹲踞の姿勢をとっていたんだった。

 

彼らの目には、力士さながらの蹲踞をみせた「勇敢な女性の姿」が焼き付いていることだろう。

 

サムネイル by 希鳳

 

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