好機を逃したホットコーヒーへの、私なりの償い

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わたしは欲に忠実なニンゲンである。そのため、歩いている途中で食べ物のいい匂いが漂ってきたら、それに逆らうことなどできない。

どんなに遅刻ギリギリだったとしても、なんらかの言い訳を作って食べ物の列に並んでしまうわけで。

 

なんせ食欲は、ニンゲンにとって唯一、物理的に満たすことのできる欲である。欲が満たされたことは体重計に乗れば一目瞭然だし、乳よりも飛び出た胃袋を撫でても実感できる。

それに比べて、夢か現(うつつ)か分からないような欲望など、満たされたところで満足できない。

 

とにもかくにも、食欲は満腹になればそれ以上「食べたい」とは思わないわけで、圧倒的な充足感に浸ることができるのだ。

 

 

わたしは今日、柔術の練習に向かう途中でコーヒーのいい匂いに捕まった。

これから練習だというのに、優雅にコーヒーブレイクなどしている暇はない。とりあえず、タンブラーに蓄えて電車の中でちょっとずつ飲むしかないか——。

 

なぜ今、わざわざホットコーヒーを買わなければならないのか、冷静に考えれば不要だと分かる。それでもあの芳しい匂いに包まれると、今がどんな状態であろうが手を出さずにはいられないのだ。

こうして、熱々のグランデサイズのブロンドアメリカーノを注いだタンブラーを抱えて、わたしは混雑する地下鉄へと乗り込んだのであった。

 

(マズいぞ、こんなに混んでたらコーヒーなんて飲めないじゃないか)

およそ想像できるであろう状況だが、「万が一空いてたら」という可能性に賭けたわたしの、甘っちょろい考えは一瞬で崩れ去った。

(ならば、乗り換えのときに飲むとしよう)

そもそも電車の中では、突然の揺れで思わずこぼしてしまう可能性がある。さらに、周囲の乗客から匂いテロの実行犯として殺意を向けられるかもしれない。

そんな危険を冒してまで、コーヒーを味わう必要などない——。

 

というわけで、乗り換え駅である飯田橋にてタンブラーに口をつけようとしたところ、背後に並んだサラリーマンの傘がわたしの足に当たった。

(ホームも混雑しているな・・)

そうだ、なにも急いで飲む必要はない。コーヒーは嗜好品であり、優雅に嗜(たしな)むものなのだから。

 

こうしてわたしは、ブロンドアメリカーノを一口も味わうことなく池袋駅に着いたのだ。

 

(これから激しい運動をするわけで、そうなれば当然ノドも乾く。水分補給は重要であり、ドリンクを持参しない愚か者などいない。にもかかわらずわたしは、たっぷりと注がれたホットコーヒーを抱えているわけで、いったいどうすれば・・・)

 

 

「あのタンブラーの中って、なにが入ってるんですか?」

灘高校から京都大学へ進学し、京大法学部を飛び級で卒業後、ロースクールと司法修習を経て四大法律事務所へ入所し、多くの同期が姿を消すなか将来を嘱望される(?)オトコ、佐和井(仮名)がこう尋ねてきた。

 

たしかに、わたしのタンブラーは見るからにスターバックスのものであり、中身がプロテインや必須アミノ酸ではないことは明白。さらに、やや透けて見える中身は黒く、果たしてその正体が何なのか気になったのだろう。

そこでわたしがホットコーヒーであることを伝えると、「え、マジですか」と明らかにドン引きされたのだ。

(オマエにそんな顔されたくないのだが・・)

内心そんなことを思いながらも、観察力の鋭い佐和井は目を輝かせながらこう続けた。

 

「ちょいちょい量が減ってますもんね。ホットコーヒーなんて、よく飲めますねぇ」

 

滝汗を流しハァハァしながらも、わたしは飲みたくもないホットコーヒーを口に含み、喉の渇きを癒していた。

当然ながら、冷たいポカリスエットと中途半端にぬるくなったホットコーヒーならば、前者を選ぶに決まっている。

そんなことは当たり前だが、口をつけていないホットコーヒーを飲まずに、新たにドリンクを購入することなど、わたしにはできなかったのだ。

 

自他共に認めるコーヒー好きで、コーヒーの匂いに誘われてわざわざブロンドエスプレッソのアメリカーノを注文したにもかかわらず、環境というか状況が合わなかったせいで、適温で味わう好機を逃すという失態を犯したわたし。

このコーヒーへの償いは、どんなに汗だくで運動をしている途中だとしても、他のドリンクを求めることなく、一途に飲み続けることだ・・と悟ったのである。

 

(佐和井にドン引かれようが、わたしはコーヒーを飲み干すのだ!)

 

——そう思いながらも、タンブラーの隣に置いてあるスポドリが、なんとも眩しく映るのであった。

 

Illustrated by 希鳳

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