「防犯のために鍵をしめない・・・の?」
怪訝そうに友人が問いかける。そう、わたしは防犯のために自宅の鍵をかけていないのだ。
正確には、不在時は防犯上鍵を閉めるべきだが、在宅時には鍵を閉めずにおく・・という意味だが。
霊的な存在よりも、実在するニンゲンのほうが恐ろしいわたしにとって、いかなる状況でも"生身のニンゲンが枕元に立つようなこと"があってはならないのである。
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スヤスヤとベッドで寝ているとき、なんらかの気配を感じてふと目を覚ましたとしよう。
もしもそこに、見ず知らずの他人が立っていたらどうだろうか。いや、知っている人物が立っていてもいい、もしも誰かがそこにいるとしたら、それは明らかにおかしいだろう。
家族のいる者にとっては、他人の存在や物音は当たり前であり、むしろ、一人ぼっちでシーンとした空間のほうが居心地が悪いかもしれない。
だが一人暮らしが長いと、むしろ他人の存在が邪魔に感じるようになるのだ。
自分から出る音と人工的な音のみで自宅内が出来上がっているため、不可解な金属音や家鳴り・床鳴りなどは徹底的に追及し、そこに疑問や懸念が残らないようにする・・そうすることで、安全かつ安心して生活を送ることができるわけだ。
要するに、霊的な存在をあぶり出すために違和感を解消しているのである。
ということは「おまえは幽霊を信じているのか?」という話になるが、これに関しては信じる信じないよりも、霊的な存在を否定する理由がない・・というのがわたしの見解。
三次元に生きる我々にとって、目の前で起きていることこそが事実であり、科学的に証明できないものは個人的な経験の有無でしか共感できない。
そのため、霊的な存在を体験したことのある者とない者とでは、霊に対する考え方や理解度が大きく異なるのだ。
そしてわたしは、そういった不可思議な体験をしたことがないので、自分自身で霊的な存在を認知しているか?と問われれば「ノー」となる。
それでも、その存在を否定することはない。ニンゲンこそがこの世における最高傑作だ・・などというおこがましい考えは、微塵も持ち合わせていないからだ。
それでは、冒頭の「在宅時は鍵をしめない」ことについて、その真意を説明しよう。
繰り返しになるが、目が覚めたときに目の前に誰かが立っていたらおかしいし、その状況に恐怖を感じるだろう。
だが、もしもそれが霊的な存在であれば諦めがつく。なんせニンゲンではないのだから、どれほどおかしな状況だったとしても「仕方ない、霊だし・・」で済むからだ。
ところがそれがニンゲンだったらどうだろうか。なぜわたしのマンションに、ニンゲンが立っているのか。オートロックのエントランスを突破し、8階までどうやって上がってきたのだろうか。
百歩譲って、オートロックは居住者の後をついていくことでクリアし、8階まで簡単にたどり着いたとしよう。それでも自宅のドアをどうやって開けたというのか——。
これこそが、わたしが「鍵をかけない」理由なのだ。
もしも、自宅のドアの鍵をちゃんとしめていたとしよう。なおかつ、ドアチェーンで厳重にロックしていたとしよう。当然ながら、ベランダ側の窓やドアも鍵をかけているにもかかわらず、生身のニンゲンが目の前に立っていたとしたら、それは説明がつかない。
もっとも、そのニンゲンが霊的な存在であれば問題はない。だって、霊なんだからドアも壁も関係なく、どこにでも出没することができるから。
ところが、相手がニンゲンとなるとそれこそ理由がなくなるではないか。ニンゲンが壁をすり抜けることなどできないわけで、ではなぜこいつはここに居るのか・・という疑問は拭えない。
そんな説明不可能な状況を回避するためにも、わたしはドアの鍵を開けているのである。
夜中に目が覚めたら、目の雨にニンゲンが立っている・・あぁ、ドアの鍵が開いていたから、勝手に入ってきたのか。ならば仕方がない、戦うとしよう——。
・・・これならば腑に落ちる。もちろん、状況としては非常事態ではあるが、物理的な説明がつくことで気持ちは落ち着くし、頭の中も整理されるわけだ。
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このように、自分自身の健全を保つためにも、在宅時は自宅の鍵を開けているのである。
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