昼前に母から電話があった。「もしもし」と言っても返事がないので、電波が悪いのかとスマホを顔から離した瞬間、震える声で母がこう言った。
「乙が、乙がもう駄目かもしれない」
そして大声で泣き始めたのだ。
*
じつは年末から、乙の呼吸に異変が起きていた。まるでオッサンのいびきのような大きな振動音が、吸気の際に発生するようになったのだ。舌根沈下のような太い音だが、喉というより鼻のほうで鳴っている気もした。
新年に入ってからは、口をくちゃくちゃさせたり、嘔吐はしないが何かを吐き出すような素振りをみせたりと、明らかに状態が変化・・というか悪化した。そこで、かかりつけの動物病院で診察をしてもらったのだが、単なる鼻炎だろうということで薬をもらい帰宅したのであった。
数日後、母から送られてきた動画には、明らかに呼吸困難に苦しむ乙の姿が写っていた。たった数日でここまで悪化するとは、絶対になにかある——。
すぐさま病院でレントゲン撮影を行った。個人的には、内視鏡やCTがいいのではないかと思ったが、事前予約が必要とのことで断念。その結果、軟口蓋(のどちんこ)が肥厚し、気道の大部分を塞いでいることが視認できた。
これは、乙のようなフレンチブルドッグに多い症状で、「軟口蓋過長症(なんこうがいかちょうしょう)」と呼ばれる病気である。内科的な治療では完治は無理なので、軟口蓋の先端を切除するような外科的処置を行うこととなる。
しかし、どうしてもその診断に納得のいかないわたしは、個人的に信頼する獣医師に意見を求めた。
「内視鏡検査をするべきでしょう。これは軟口蓋ではなく、鼻から鼻咽頭にかけての問題です。なぜなら、軟口蓋の肥厚が原因ならば、以前からそういった兆候があったはずだからです」
——確かに、その通りなのだ。
短頭種(頭蓋骨の長さに比べて、鼻が短い犬種)には、一般犬種に比べて軟口蓋が長かったり、外鼻孔(鼻の穴)が狭かったり、舌根部が太かったりといった特徴がみられる。
このような器官構造のせいで、呼吸器系の疾患にかかりやすいのがフレンチブルドッグのさだめ。さらに、太りすぎると首回りの脂肪が気道を圧迫したり、加齢により軟口蓋が長く厚くなったりと、ユニークな見た目とは裏腹に様々な病気のリスクを抱えているのである。
・・こういった事実は承知の上で、それでも、ここ最近で急激に悪化した呼吸困難の症状が、一般的な軟口蓋過長によるものとは思えなかったのだ。
とはいえわたしは完全なる素人で、レントゲンから見受けられる鼻咽頭の狭窄は確実に認められたし、これが原因でほぼ間違いないはず。だがどうしても「違う」気がしてならなかったのだ。
さらに知人の獣医師はこう教えてくれた。
「わんちゃんは口呼吸をほぼしないので、鼻が通らないと呼吸ができなくなるんです」
この言葉を聞いたわたしは背筋がゾッとした。われわれ人間は、鼻が詰まっても口で息をすれば生きられる。ところが、犬はそうではないのだ。
改めて、異常な呼吸音で苦しそうに息をする乙の動画を見直してみる。・・すると、先ほどの言葉が重なり、あまりの恐怖でわたしが呼吸困難に陥りそうになった。
犬は言葉がしゃべれない。よって、どんなに苦しくても「苦しい」と伝えることはできない。ただただ目の前にある人生を必死に生きるべく、全力で命をつないでいるだけなのだ。
口を半開きにして上を向きながら、太いいびきのような呼吸を繰り返す乙は、横になることができない様子だった。咽頭の形状によるものか、はたまた横隔膜が下がるため肺の面積が増えるからなのか、座位のまま虚ろな目で息をしている。
横になれない乙は、当然ながら寝ることができない。あるいは、睡眠時の筋弛緩で気道が狭まり、無呼吸症候群を引き起こしては目が覚める・・の繰り返しで、眠りたいのに眠れないのかもしれない。
いずれにせよ、望んでなどいない覚醒地獄を強制されているのであった。
*
このような状態が三日も続いた今日、とうとう、乙の呼吸が静かで弱々しいものに変化した。さすがに体力の限界なのだろう、座位すらも維持できずにバタンと倒れるなど、見ているだけで可哀想な状態だ。
・・そんな乙と寄り添う母は乙の死を覚悟したのか、号泣しながらわたしに電話をかけてきたのである。
母の声を受け止めたわたしは、乙の状態に困惑するよりも先に「なぜ病院へ連れて行かないのか」と尋ねた。すると母は、
「だって・・こんなに弱っちゃってたら、連れて行ってもなにもできないでしょ」
と言ってまた泣いた。
本来、わたしが乙の世話をするべき立場なのに、今の住居でペットを飼うことができない・・という身勝手な理由で、実家の母に託しているのが現状。そんな「乙の命の恩人」である母に、感謝こそすれど説教などできる立場ではないことくらい、百も承知している。
だが、わたしは思わず母を怒鳴りつけた。
「今すぐ病院へ連れて行って!!!」
いったいなぜ「もうすでに最期を看取る覚悟」でいるのか。今の状態を知るためにも、病院で検査をするべきではないのか。泣いていれば症状が改善するとでもいうのか——。
母と話をするうちに、じつのところは「加齢や短頭種特有の症状とは違うのではないか?」と感じていたのだそう。しかし、検査をしてくれた獣医師の診断にケチをつける・・いや、意見することなど、とてもじゃないができないタイプのため、
「軟口蓋よりも手前の・・鼻側に原因があるかもしれないから、すぐに内視鏡検査をしてもらって」
とわたしが言うと、
「それは予約なしでできるの?」
「こんなにぐったりしてるから、麻酔は無理なんじゃないの?」
「お母さんからは、先生に対してそんなこと言えない・・・」
などなど、病院へ連れて行きたくない理由を並べたのである。
「・・・じゃあ、乙を見殺しにするの?」
すると母は、また泣きだした。
そこで、わたしが動物病院へ連絡をして"素人の戯れ"という前提で、乙の状態と個人的な見解を伝え、どうにかして内視鏡とCT検査をしてもらえないか・・と懇願してみた。
無論、診察をしてくれた獣医師に不快な思いをさせぬよう、そして病院自体を批判するようなこともせず、極めて穏便に聞き分けのいい"頭でっかち"を演じたわけだが。
・・結果的に、明日の朝イチで内視鏡とCT検査をし、その結果次第でそのまま手術に入る流れとなった。しかも今回は、腕利きでイケメンの院長が診察してくれるとのこと。
(もしかして、わたしのことをクレーマーだとでも思ったのか・・・)
*
もはや、乙にとって悔いのない選択をしてあげることくらいしか、今のわたしにできることはない。こんな状況で飼い主を名乗るのはあまりに虫がよすぎるが、それでもわたしは、乙の飼い主なのだ。
——乙よ。朝イチの新幹線でおまえの元へと向かう、無責任な飼い主を許しておくれ。
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