ネバダ州でちょっとだけ半狂乱になった私

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(またやってしまった・・・)

ここまでくると、もはや絶望とか狼狽とかそういった感情は起きない。一瞬たりとも焦ることなく、淡々と現実を受け入れる自分の度胸に、むしろ驚きすら感じるわけで。

 

思い返せば初めてこの経験をしたのは15年前、ロンドンオリンピックのときだった。そして、あのときの落胆ぶりったらなかった。帰りの飛行機の中でさえ、泣きながらキャビンクルーに絡んでいたほど、色々な思い出とサヨナラしなければならない現実を、とてもじゃないが受け入れられなかったのだ。

だが当時は、「スマホを失くしたら電話番号は復活しない」と思い込んでいたために、想像以上に混乱してしまっただけで、実際のところショップへ行けば復活することがわかり、これまた拍子抜けしたのを思い出す。

——そう、「またやってしまった」中身は、スマホを失くしたことだった。

 

 

(あれ、そういえばわたしのスマホどこだろう・・)

充電器を片手に、軽い気持ちでスマホを探していたところ、友人から呼ばれて別の用事に気を取られたことで、スマホの存在を忘れてしまったわたし。

 

海外でスマホが必要なシチュエーションといえば、真っ先に思い浮かぶのはUberを利用するときだろう。そもそも、スマホのUberアプリで配車を依頼して支払いを済ませ、あとどのくらいで車が来るのか、そしてルート通りに目的地へ向かっているのかを画面で確認しながら移動し、降りてからはチップの精算とドライバーの評価をするところまでが利用者の義務であるため、スマホがなければUberを使うことはできないのである。

 

このように、移動に際してはスマホが重要視されるが、室内にいるとき、さらには誰かと一緒にいる場合などは、スマホの存在は忘れ去られる傾向にある。

そのため、自分の周囲にスマホの姿は見当たらないが、まぁどうせ室内のどこかにあるだろうと、軽い気持ちで過ごしていたのだ。

 

それからしばらくして、改めてわたしはスマホが見当たらないことに気が付いた。たしか、パンツのポケットに入れておいたはず・・と思いながら尻のあたりをまさぐるも、固い四角に触れることはない。

(おかしいな、無意識にどこかへしまったのか?)

想像しうる限りの、わたしがスマホをしまいそうな場所を探すも、影も形も見当たらない。

 

やや面倒くささを感じつつも、とりあえずは所在を確認しておきたいわたしは、友人に頼んでわたしのスマホへ電話をかけてもらうことにした。

プルルルルル・・・

確かに呼んでいる。少なくとも電波は通じているため、やはりどこかその辺に落ちているのだろう。

 

日頃から着信音を消音にしているため、バイブレーション機能の振動を頼りに、衣服や食べ物などスマホが隠れていそうな場所を触れてまわった。それなのになぜか、あの煩わしい振動を探し当てることができないのだ。これはおかしい——。

楽観的に考えていたわたしの脳裏に、ひと筋の嫌な記憶がよみがえった。まさか、失くしてなどいないだろうな・・。

 

電話の呼び出しを継続しながら、今度はここへ来るまで乗っていた車のシート付近に手を当ててみた。室内になければここしかありえない。車を降りてガレージを通過し室内へ入ってきたわけで、きっとシートの後ろや左右の溝に落ちているのだろう。

そう思いながら助手席のドアを開けると、そこには突き刺すような静寂が広がっていた。まさかの、無量空処——。

 

わたしは焦った。二度目の経験とはいえ、さすがに焦った。

(スマホくらい、失くしたっていいじゃないか。帰国したらすぐにショップへ行けばいいのだから)

・・とはならない。当時のスマホよりも今のほうがよっぽど、失くしてはならないアイテムだからだ。電話帳のデータが消えたり思い出の画像や動画を失うことなど、残念ではあるがそれこそどうでもいい。

だが、クレジットカードや銀行口座の情報が埋め込まれているスマホを失くしたら、それによる損害はかなり大きい。そもそも、携帯電話を失うということは、固定電話のない人間にとっては連絡手段を断たれることとなる。

とはいえ、今どきは諸々の手続きや連絡をネット経由で行うことができるので、電話がなくてもどうにかなるのだが、それでも電話がなければ困る場合もある。つまりどう考えても、スマホを失くしたって大丈夫!とはならないのである。

 

わたしは半狂乱になりながらスマホを探した。室内も車内も、ありとあらゆるところを探した。それでも、どこからもあのバイブレーションは響いてこない。

車での移動前は射撃場にいたのだが、一面を堆積岩(たいせきがん)で覆われた灼熱の大自然で、スマホを落として見つけることができるとは思えない。仮にわたしにその気があったとしても、友人の車を借りてあそこまで戻り、不可能を承知の上で捜索に励むことなど常識的に考えて無理である。つまり、射撃場でスマホを落としたとすれば、もう二度とお目にかかることはないのだ。

 

(いや、必ずある。車に乗り込むときにスマホをポケットに入れた記憶があるのだから!)

病的に問題のある記憶力を辿りながら、わたしは間違いなく乗車前にスマホをポケットに入れた事実を突き止めた。そして車内にもなくて室内にもないとなれば、残すはガレージのどこか——。

 

わたしはダッシュでガレージに向かった。そして車の下からガレージの隅っこまで、這いつくばってスマホを探した。

(・・・あった)

なんてことはない、車のすぐそばの床に置いてあった道具入れの上に、わたしのスマホが横たわっていたのだ。布でできた道具入れがクッションとなり、落下音もバイブレーションもきれいに吸収されていたわけだ。

 

 

何が言いたいのかというと、記憶をたどれば真実に突き当たる、ということだ。

なにごとも諦めてはならないし、やたら滅多に半狂乱になってはいけない。スマホが忽然と消えるなどという現象は、今のところこの世では起こらないのだから。

 

Illustrated by 希鳳

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