(やっちまったな・・)
わたしがそう思った時には、もはや手遅れだった。
素人にありがちなミスといえばそれまでだが、日本人にとっては「なんでそんなことで、目くじら立てて怒るの?」という感じかもしれないが、アメリカ人にとってはとてつもなく不快で、むしろ恐怖と憎悪を抱かせる行為を、友人がついうっかりとってしまったのだ。
とはいえこれは「文化の違い」によるうっかりミスだった。厳密には、単なる文化の違いというより「銃文化の違い」と言うべきか。
そして、あれほど温厚でフレンドリーだったコーチが、瞬間的に顔をこわばらせ語気を強めてこう言ったのだ。
「それは俺を殺す行為だ」
*
銃になじみのない日本人にとって、「その存在」はゲームの世界におけるアイテム程度だろう。サバイバルゲームやモデルガン所持が趣味の人間でも、所詮はおもちゃであり人を殺すための凶器だとは考えもしない。
「そんなことはない、十分に承知している!」
と、憤慨する者も中にはいるはず。しかし、戦場に立っていると仮定してモデルガンを扱うレベルではないだろう。
今回わたしは、日本で触ることのできない銃を楽しく撃つために、ラスベガスへ来たわけではない。もしも戦場に立たされたとき、どうやって生き延びるのかを学びに来たのだ。
よって、当たり前だがマガジンに弾を込めるところから装填、セーフティの解除、撃発、そして弾詰まりなど銃器トラブルの解消まで、すべて己の力でやらなければならない。
ちなみに、トリガーが引けなくなる原因は3つあるのだが、そのうちのどれに該当するのか判断できずにいたところ、
「もう死んでるよ」
と、コーチに笑われた。そりゃそうだ、わたしが撃つということは、相手からも撃たれる可能性が高いのだから。
とはいえ、少なからずわたしは日本においても銃器を所持しており、その危険性は一般人よりも熟知している。いや、危険性というよりは、銃器を扱うマナーを熟知していると言うべきか。
狩猟の際に誤射による死亡事故が発生したり、散弾銃による事件や事故が起きたりと、銃絡みのトラブルは毎年ニュースになるわけで、人の命を奪う凶暴さは客観的に理解しているが、どこか他人事に感じている部分はある。
そして銃所持者だからこそ、絶対に意識しなければならないことがある。それは銃口の向きだ。
銃口=マズルのコントロールは、銃を手にするにあたり絶対かつ必要最低限のマナーとなる。さすがに10年も経てば、無意識にマズルコントロールは行えるようになるが、銃身の短かいピストルなどは特に注意しなければならない。
このように、銃器を扱う最低限のルールを心得ているはずのわたしだが、競技目的で銃器を所持するのと戦闘目的のそれとでは、マズルコントロールのシビアさが桁違いであることを、ここアメリカにて身をもって知らされた。
これは本当に、想像では追いつかないほど神経を使わなければならなかった。常に自分と他人の位置を意識し、マズルの向きや角度に気を配る。・・文字にすると当たり前のことだが、実際にはさまざまなトラブルが起こりうるため、突発的な動きの際も最優先で意識しなければならないのだ。
——冒頭の話に戻るが、ついうっかりマガジンを落としてしまった友人は、慌ててそれを拾おうとしゃがんだ。しかし、スリング(肩ひも)で繋がれたライフル銃は、ややもするとマズルは上を向きやすい。そのため、しゃがんだ瞬間に銃口が、隣に立っていたコーチへと向いてしまったのだ。
マガジンを落とした時点で、わたしは友人に注意を促すべきだった。「んー、でも大丈夫かな?」と、淡い期待を抱いたのも確かだが、実際に銃器を所持していない人間にとって、われわれの「当たり前」はまったく当たり前ではないことを、感覚的に理解していなかったのだ。
そして頭では「人に銃口を向けてはならない」と分かっていても、突然のアクシデントの際に優先されるのはアクシデントの解消であり、銃口への意識は薄れてしまうのだろう。
とはいえ、こればかりは経験が物を言う。内心、「弾なんて入ってないんだから、銃口を向けたってなにも起きないだろ」とか、「おもちゃのピストルなんだから、そんなにビビる必要ないだろ」などと、銃の扱いを軽視していた時期もあった。
だが、経験年数を重ねるうちに自然と、おもちゃであろうがなんであろうが、銃口を人に向けるという愚かな真似はしなくなった。正確には、できなくなった。
これが「遊びで楽しむ射撃」だとしても、やはり十分注意しなければならないことだが、今回はとくに戦闘を想定してのトレーニングのため、「ついうっかり」は命取りとなるのだ。
戦いの場に出るならば、当たり前だが、自分と仲間の安全を最優先に考えなければならない。その上で、作戦諸々が成り立つのだから。
*
改めて、「郷に入っては郷に従え」という言葉の意味を、強く肌で感じた瞬間でもあった。
そして日本と外国との違いは、どう考えても埋められないほどの差があるわけで、それが良い悪いではなく、素直に受け止めるべき現実なのだと思った。
何はともあれ、言葉や文化の壁を超えた「学び」に、心から感謝したい。
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