勝つべくして勝つという、当たり前の「絶対」

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試合に「絶対」はないというが、ある程度の絶対視ができることがある。それは、「勝者は勝つべくして勝っている」という絶対だ。

 

 

わたしは今、米国ラスベガスに来ている。年に一度の柔術マスター世代(30歳以上)の大イベントである、「ワールドマスター柔術チャンピオンシップ」が開催されているからだ。

 

ブラジリアン柔術という競技は、インターハイや国体、さらにはオリンピック種目にも入っていないため、部活動などでお目にかかることはない。しかし、小学校低学年の子どもから孫が成人したようなシニアまで、柔術に携わる年齢層の広さはスポーツ界随一といっても過言ではないだろう。

 

そして試合に関しても、柔術という競技の懐は広い。通常ならば、年齢別だったとしても少年と大人、あるいはアダルトとマスターの2カテゴリー程度のところ、柔術はさらなる分割を試みているからだ。

まずはアダルトカテゴリーだが、こちらは年齢制限はなし。そのため、何歳であってもエントリーすることができる。いわばアダルトカテゴリーで勝利してこそ、真の勝者を名乗ることができるのだ。

そしてもう一つ、マスターカテゴリーについては30歳以上かつ5歳刻みで用意されている。ここまで詳細に「年齢」という区分を設けている競技というのも珍しいだろう。そのくらい、年齢によるパフォーマンスの違いが出やすいと考えられているのかは分からないが、こういったカテゴリー区分の多さも、柔術の試合に参加するにあたって大きなモチベーションになっていることは間違いない。

 

さて、今回のワールドマスターに関していえば、日頃からアダルトカテゴリーの試合で戦っているような猛者から、ある種の記念的なイベントとしてエントリーしたような愛好家まで、さまざまな目的で試合に挑んでいる人々を眺めることができた。

とはいえ本日が大会最終日であり、まだまだ熱い戦いは続くわけだが、ひとまず今までの内容を振り替えってみたい。

 

まず少なくとも、わたしが直に見た試合で「運よく勝った」という選手はいなかった。たとえわずかであったとしても、明らかな実力の差を持って「勝つべくして勝った」という試合しか、存在しなかった。

明らかな実力差というのは、おとなと子どもほどの差があるというわけではない。たとえ1点であったとしても、99点と100点に大きな違いがあるように、数値化すればわずかでもそこには埋められないほどの大きな溝が、いや、超えられないほどの高い壁があるわけだ。

ちなみに、日頃から世話になっている友人の試合では、なかなか見ることのできない彼女の姿に驚かされた。

たしかに、過去のデータや試合動画も確認できない相手と試合をするというのは、いかなるメンタルいかなる実力を持ってしても緊張は避けられない。さらに黒帯という、柔術界における最高位同士の戦いともなれば、実力は拮抗しておりハイレベルな争いとなること必至。

そんな、見ている側も背筋が伸びるような戦いの火ぶたが切って落とされた。

 

(・・・!!!)

なんと、普段の練習では見ることのない、両者見合った状態が続く展開となった。

初顔合わせなのだから当たり前のことだが、それでも彼女は、普段ならば光の如く素早く動き、己の展開を確立するのが持ち味。それなのに、なんとも不安定な状況で相手の出方を探る姿に、驚きと新鮮さを感じた。

 

どれほど試合慣れした百戦錬磨だとしても、やはり目の前の一戦に緊張するものなのだ。それは当たり前のことかもしれないが、それでも現実的に目の当たりにすることで、疑いや幻想は破壊され、生々しいリアルだけが存在するのであった。

 

ところが、やはり彼女は強かった。ウォームアップとなる数分が経過した後に、いつものキレのある動きを取り戻し、緊張や恐怖を跳ね除けるような生き生きとした動きを披露してくれた。

——これこそが実力。

そう言わざるをえないほどの圧倒的な強者感を放つ彼女は、華麗に舞い鮮やかに相手を葬り去った。

この他にも、名だたる著名人の試合を観戦したが、いずれも最終的には「強者の戦い」であり、明らかに「勝つべくして勝った」という試合運びであった。

 

繰り返しになるが、勝負事に絶対はあり得ない。だが、勝つべくして勝つという「絶対」はあり得る。そんな、当たり前の勝負論を体感することができたわけで、わたしには到底たどり着くことのできない「勝者の道」を、目を細めながら見守らせてもらった。

どれほど練習を重ねようが、あるいはどれほど死ぬ気で試合に挑もうが、「勝つべくして勝つ」という法則からは逃れられないのだと、妙に納得させられたのであった。

 

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