アメリカのサンディエゴにある、10th Planet San Diego Jiu Jitsu(テンスプラネット)へ出稽古に行くため、私は明日出国する。
高度なグラップリング(寝技)のテクニックを習得し、実りある2週間を過ごすべく、最終調整に余念がない。
スパーリングの途中で腰にわずかな違和感を覚えたが、痛いわけでも動けないわけでもないのでそのまま続行。
帰宅した私は、明日からのアメリカへ向けて準備をはじめた。
*
ーー真夜中
なんとも腰が重く違和感を覚える。
痛いわけではないが、腰部の血流をダイレクトに読みとれる不吉な感覚。
口が渇き唾を飲み込む回数が増える。
額からあぶら汗がにじみ出る。
時間がたつにつれ腰部の違和感は増し、横たわっていることすら苦しくなってきた。
ーーこれはいったい
スマホで近所の整形外科の診療時間を調べ、朝イチで行くことにした。
*
腰の違和感と恐怖から眠ることができず、不安を抱えたまま朝を迎えた。
ここまでの経緯からも、当然、起き上がることなどできない。
ベッドから転がり落ちる方法で起床。
着替えようにも前屈(かが)みができないため、脱ぐことも着ることも靴下をはくこともできない。
(着替えなどどうでもいい、いち早く病院へ行くべきだ)
負傷兵がほふく前進するかのように横這いしながら玄関へと向かう。
そして玄関のドアノブにしがみつき、なんとか立ち上がった。
立ち上がることでは痛みも違和感も感じない。
ただし足を前にだすと、腰が抜けるような気持ち悪さを感じる。
慎重に歩かねばーー
きっと、私の顔は真剣そのものだったはず。
もし転倒でもすれば、立ち上がるのに相当な苦労を要する。
なにがなんでも病院までたどり着く必要がある。
通常ならば徒歩4分の整形外科への道のり。
本日はいったい何分、いや何時間かかるのだろうか。
腰に爆弾を抱えた、私の孤独で長い旅が始まった。
*
エレベーターで一階まで下り、壁をつたって外へ出る。
そこでふと、支えなしで病院まで歩けるのか?という不安と疑問が湧いた。
しかしいまから部屋へ戻ることはほぼ不可能。
最悪、道路を這ってでも進むしかないと覚悟を決めた。
およそ10センチの歩幅で、少しずつちょっとずつ恐る恐る歩を進める。
チワワも老人もハイスピードで私を追い越していく。
ーーいいんだ、本日の私は無事に病院までたどり着けさえすればそれで
人間というのは本当に愚かな生き物だ。
己が弱者となったとき、初めてその苦労や不便を知る。
所詮わかったフリをしていただけのこれまでに、今さらながら反省。
15分くらい経ったころ、距離にして50メートルほど前進したところに、行きつけのベーグル店がある。
「おはようございまーす」
カワイイ店員が笑顔で出てくる。
「さっきからずっと見えてたんですが、なかなか来ないねってみんなで見守ってました」
なんと恥ずかしい!!
一見なんの変哲もない私が、顔をこわばらせ真っすぐ前を見つめ、動いてるか動いていないか分からないほどのスピードで歩を進める姿を、ずっと見られていたとは。
「朝起きたら腰が痛くて動けなくなっちゃってさ」
えー、それは大変だから早く病院へ行ってください。
そう、その病院へ向かう途中なのよ。
帰りにベーグルを買う約束をし、旅路へと戻る。
道程の5分の1を走破(歩破)した。
残り5分の4か・・・。
*
通勤時間帯と重なり、駅へ向かう大勢の人々とすれ違う。
東京の人は歩くのが速いと言われるが、本日の私からすると凶器に近い速さで通り過ぎていく。
もしぶつかりでもしたら致命傷だ。
ノロノロしているお年寄りを「邪魔だ」と思うことが、どれほど身勝手なことかを思い知らされた。
ノロノロしたくてしてるんじゃない、それしかできないからノロノロしてるんだよ。
それは年齢からくるものかもしれないし、ケガや病気からくるものかもしれない。
いずれにせよ、ノロノロしたくてしてるんじゃねーんだよ!と、全国のお年寄りを代表して叫びたかった。
*
目は血走り、鼻息は荒く、こわばる顔で一点を見つめる私。
側から見れば恐ろしい形相で突っ立っているだけだが、じつはわずかに足を出している。
少しずつ、本当に少しずつ目的地へと近づく。
私がこれほどのとんでもない苦労をしながら歩いて(正確にはすり足して)いることなど、誰も知らない。
見た目が元気で頑丈そうなことが悔やまれる。
そうこうするうちに、ようやく病院へたどり着いた。
通常4分の道のりを50分かけて歩いてきたらしい。
このままで出国できるのだろうか。
それよりアメリカで練習など、、、できるわけがない。
「ぎっくり腰に近い症状だね、急性腰痛症」
数時間後にフライトがあること、現地で格闘技の合宿に参加することを説明する。
ドクターは苦笑いし、
「長時間のフライトがまずいよね。
じっとしてることが一番よくない」
そう言いながら、大量の鎮痛剤を処方してくれた。
飲み薬2種類、座薬1種類、カラフルな錠剤を大量に手渡された。
「えーっと、これは入国審査で引っかかるやつだから気を付けてね。気を付けたってしかたないけど」
その薬とは麻薬性鎮痛剤。
しかし今はクスリに頼るしか方法がない。
どうせ毎回アメリカの税関ではひと悶着あるわけで、この際、麻薬だろうが何だろうが戦ってやろうじゃないか。
心強い相棒を味方に、私は再び自宅への長い道のりを歩み始めた。
果たして午後成田発のフライトに間に合うのだろうかーー
Illustrated by 希鳳
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